四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 高知県津野町

道の駅『布施が坂』
住 所:高知県高岡郡津野町船戸小宮谷
電 話:0889-62-3225
事業団体:
道 路:国道197号
施 設:レストラン、特産品販売所(丸々とした美味しそうな茄子が売っていました。)、桂農村公園、龍馬脱藩の路、
近隣施設:天狗高原、梼原町
資 料:Wikipediaなど
撮影日:2013年10月2日

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桂農村公園
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大町桂月詩碑
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津野山古式神楽の由来(重要無形民俗文化財=昭和55年 1月28日指定)
津野山古式神楽は、平安時代の延喜十三年(913)藤原径高が京の都より津野山(現津野町)に入国したときに伝えられ、現在に舞い継がれております。
取り入れも終わった秋の大祭には、五穀豊穣、未病息災など加護に感謝し、飲みながら、しゃべりながら神さまと村人が混然一体となって奉納され、楽しむ神楽は、これぞ日本人の心のふるさとであります。
11月15日河内五社神社(北川地区)、16日三嶋神社(高野地区)、19日諏訪神社(芳生野地区)にて奉納。


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風神塚 
津野町指定史跡 昭和五十五年二月二十日
所在地:高知県高岡郡津野町高野

 この塚は、中平善之進穏敦(やすあつ)の供養塚である。
 善之進は、宝永六年(1709)北川村の庄屋「上岡吉右衛門」の長男として生まれた。十五歳で庄屋の代勤をする程の利発者であった。
 元文三年(1738)檮原村の庄屋「中平弥左衛門定経」の養子となり庄屋の職を継いだ。その頃土佐藩は財政が苦しく、国産方を置き国産品(茶や楮など)を専売して利益を得ようとした。
 津野山郷の御用商人は「蔵屋利左衛門」という貪欲非道の者で専売権を悪用して私腹を肥やすことに終始したため百姓は日に日に貧乏になった。善之進はこの様を見るに忍びなく、津野山九ヶ村の庄屋を集め協議をし、藩に対し百姓の現状を訴え貢物の減免と国産方の配置替えを嘆願したが藩はこの訴えを取り上げないばかりか、このことを不当として弾圧さえ加えようとした。
 こうして起こったのが津野山騒動で、善之進は張本人として捕えられ牢に入れられた。善之進が牢屋より蔵屋の非道を強く申し立てたことにより蔵屋と対決させられることになったが、蔵屋は善之進の鋭鋒に罪を逃れがたいことを悟り自殺してしまう。
 その結果百姓たちは無罪、老名本はお○おき、庄屋は取締不行き届きのかどで役儀を取り上げられ藩外に追放された。総責任者であった善之進は、宝暦七年(1757)七月二十六日檮原町神在居長野駄馬において打ち首の刑に処せられた。
 藩庁は善之進のこれまでの徳政を知り、考えを改め善之進を助けんと急使を走らせたが時既に遅く、神根越まで来たとき斬首された。その時、大時化となり濁流で谷川を渡ることが出来ず使者は引き返したという。この大時化は七日七晩荒れ狂い世間では善之進時化といった。明治十九年(1886)の大時化も彼の霊の祟りであるとして翌二十年津野山郷の人々が集って供養し、その後十年に一回東津野・檮原両町村合同で祭典を行っていた。最近では四年に一回盛大に供養祭が行われている。
 平成二十五年三月 津野町教育委員会 説明板より転載しました。 


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道路向かいにある銅像
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 中平善之進像 高知県高岡郡津野町高野
 中平善之進は穏敦(やすあつ)、幼名を鴨之助という。宝永六年(1709)北川庄屋上岡左衛門次正の長男として生まれる。
 幼にして利発、享保八年(1723)六月、十五歳にして北川大庄屋代勤を聞届けられた。元文三年(1738)郡方の勧めで梼原村大庄屋中平弥左衛門の養子となった。藩においては財政建直しのため宝暦二年(1752)国産方役所をおき、国産品を指定し問屋を定めてその利益を吸収する制度をとった。
 津野山方面の御用商人は蔵屋利左衛門で、彼はその専売権を利用して買いたたいたので農民は窮乏して来た。善之進は数度津野山九ヶ村の庄屋を招集して協議し藩庁に対策を訴えた。
 藩はこれを握りつぶして何ら対策を立てないのみか、その願いを不当として弾圧をさえ加えかねない有様で、
農民等は怒って「蔵屋を殺そう」と騒ぎ始めた。善之進はそれを押し鎮め、自ら藩庁に出頭しこの窮状を訴えようとしたが、芳生野村村庄屋が藩庁に密告したので、足軽一隊が派遣され主だった者を召し捕り入牢せしめた。時に宝暦五年(1755)これを「津野山騒動」と呼んでいる。
 善之進は牢獄にあって蔵屋の非を叫び続けたが、蔵屋の死にあい黒白(こくびゃく)をつける術(すべ)を失い、
宝暦七年(1757)七月二十六日神在居において打首の刑に処せられた。
 この時突如暴風雨となり荒れに荒れたので、これを世に「善之進時化(しけ)」と呼んで善之進の怒霊のなせる業(わざ)として恐れられた。
 その後藩庁では国産方を廃止しる処置をとったが、それ以上に彼の義に倒れた精神は郷土に生きて明治維新の志士を輩出し、回天の事業をなしとげたのである。
 善之進ときに四十九歳であった。 中平善之進銅像建立期成同盟会 説明板より転載しました。
 銅像原型 濱田浩造
 道を挟んで向かいには「風神鎮塚」がある。隣には茶堂 道にしたには高野の舞台もある。
 写真は2013年10月2日撮影
 場所はスポットノート『銅像や記念碑等のmap』に投稿します。
 
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 高野の舞台 国指定重要有形民俗文化財 昭和五十二年六月十四日指定 高知県高岡郡津野町高野三島神社境内
 この舞台は、明治六年八月に建築されたもので、舞台裏でのハンドル操作により、舞台を回転させる当時とし
ては進んだカラクリの「鍋蓋上廻し式舞台」である。
 前橋工業短大の松崎茂博士の調査発表「農村舞台考」の中に「高野の舞台は、その機構で日本唯一の鍋蓋上廻し式の農村舞台で、発展過程の歴史的資料であり、学術的にも非常に貴重なものでる」と述べられている。
 その昔より、この地方で、民衆娯楽として農村歌舞伎が盛んであったことは、各所に残る農村舞台や、旧家に
残る浄瑠璃本等によって推察される。中でも、当高野地区は最も盛んであったようで、山本家には、天誅組で活
躍した前田繁馬先生愛蔵の「伊賀越道中記」等数多くの浄瑠璃本が保存されている。
 言い伝えによると、この舞台建築前にも廻り舞台があったとのことであり、藩政中期頃概に同種の舞台が建築
されていたことも考えられる。
 価値高いこの舞台とともに、農村歌舞伎の伝統も守り続けてゆきたいものである。昭和五十三年三月 津野村
教育委員会 説明板より転載しました。
 高野農村歌舞伎
 日時 平成二十五年十月五日(土) 午後五時三十分
 場所 高野の廻り舞台 高知県高岡郡津野町高野
 演題 浄瑠璃式三番叟、白波五人男、虎太郎魁大和錦
 太夫 竹本美園
 振付 中村和子
 下座音楽 望月左喜三郎
 
 写真は、2013年10月2日撮影
 場所は、スポットノート『古建築物map』に投稿します。
 近郊スポット 風神塚、中平善之進銅像
 
国道側より
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三島神社鳥居
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 高野の茶堂
 藩政時代から津野山には、各地に通ずる街道沿いに茶堂が建てられていた。茶堂の中には仏像が祀られており、盆月には、里人が交代で通行人に茶葉の接待をして、心情と社交の場としての役割を果たしていた。年中開放されていて、旅人はここで自由に宿泊することが出来た。
 茶堂は道路の整備が進むと、次々と取り壊されて今では町内に数箇所残っているのみである。
 ここの茶堂は萩の地蔵が安置されている。四万十川流域の文化的景観 より。
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 貝ノ川の棚田 高知県高岡郡津野町貝ノ川
 石積みの棚田が広がっていて見ごたえのある風景!。季節季節に来てカメラマン達の絶好の撮影スポットだと
思います。道は狭いですが、国道から数分で棚田に到着します。駐車場はありませんが、小時間だと迷惑でしょ
うが問題なかと・・・。今回は、稲刈りも済んでいて残念でしたが、田植え前の水の張った風景も見たいな~と
思わせる風景でした。
 尚、棚田オーナー制度があって毎年2月頃募集しているようです。問い合わせは、津野町役場企画調整課内 
地域おこし協力隊 0889-55-2311まで
 
 貝ノ川・第5回棚田キャンドルまつり
 高知県高岡郡津野町で10月12日(土)に貝ノ川地区で棚田キャンドルまつりが行われます。(雨天順延翌日に)
 200枚以上からなる石垣の棚田に4000本を超えるキャンドルが設置されます。明るい時の石垣の棚田、暗くなっ
てからはキャンドルの灯かりをお楽しめる。
 
 写真は、2013年10月2日撮影
 場所は、スポットノート『公園・景勝地のmap』に投稿します。
 
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