四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 愛媛県四国中央市

古墳名:北山古墳群・北岡山第二号古墳
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場 所:当地みかん畑内(見学自由)
住 所:愛媛県四国中央市上柏町1631−2

形 式:円墳
規 模:
石 室:幅1.5m 高さ1.5m 奥行3.8m
羨 道:両袖形
築造期:七世紀中葉
史跡指定:四国中央市指定 昭和37年4月1日指定
解 説:北岡山のなだらかな丘の南斜面のミカン畑に二基並んでいます。この他にも丘の山頂近くに破壊されたものや下の田の中に在って消滅したものを含め、七基の古墳が確認されている。何れも七世紀中葉の群集墳である。
資料等:現地説明版
撮影日:2022年3月10日
駐車場:別に無し空き地で

古墳名:北山古墳群・北岡山第一号古墳
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場 所:当地みかん畑内(見学自由)
住 所:愛媛県四国中央市上柏町1631−2

形 式:円墳
規 模:
石 室:幅1.5m 高さ1.5m 奥行1.8m
羨 道:片袖形
築造期:七世紀中葉
史跡指定:四国中央市指定 昭和37年4月1日指定
解 説:北岡山のなだらかな丘の南斜面のミカン畑に二基並んでいます。この他にも丘の山頂近くに破壊されたものや下の田の中に在って消滅したものを含め、七基の古墳が確認されている。何れも七世紀中葉の群集墳である。
資料等:現地説明版
撮影日:2022年3月10日
駐車場:別に無し空き地で

神社名:春宮(とうぐう)神社と石棺
祭 神:木梨軽太子
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古墳名:東宮山古墳石棺
場 所:東宮山
住 所:愛媛県四国中央市妻鳥町2256
形 式:両袖式横穴式石室
規 模:Wikipedi参照
石 室:Wikipedi参照
羨 道:Wikipedi参照
築造期:Wikipedi参照
資料等:Wikipediなど
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創 建:
創 基:
社 格:
住 所:愛媛県四国中央市妻鳥町2256

電 話:
文化財等:陵墓参考地 史跡指定=1895(明治28)年12月04日
駐車場:無
撮影日:2022年3月10日
資料等:現地説明版など、

東宮山の由来
 木梨軽太子は第十九代允恭天皇の第一皇子であらせられ皇位を継承すべきであったが、群臣が背き御弟の穴穂皇子を擁立せんとした。そこで太子が挙兵の準備をされたが事前にあらわれ、伊予の道後へ遷され給う。途中暴風にあい御船は吹き流されて本町浜田の東宮石に漂着。浦人等畏み清淨森厳な当地に宮居を建立し、そこへ太子を遷し奉り、ここに幾年月過ぎ去れた後、悲運の生涯を閉じられた。そこで従臣・里人が相寄り東宮山の上に鄚重に葬り奉る、東宮御陵と申し上げ、なお、その側に御霊を奉斎する一社を建立して春宮神社と尊称崇び奉じることにした。

神社名:三島神社
祭 神:大山祇神
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旧本殿
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裏参道
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創 建:伝養老4年(720)
創 基:
社 格:県社
住 所:愛媛県四国中央市三島宮川1丁目1−53

電 話:0896-23-3626
由 緒
 奈良時代の初期越智玉澄、宇摩の大領に任じられ今の上柏町御所の地に新館を建て宇摩郡を経営したが年老い毎月の大三島宮参籠も出来なくなったので養老四年旧八月二十三日大三島宮より奉遷し八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地を選び奉斎したのが始まりであり、それよりこの地を三島と云うようになった。
H P:
文化財等:
駐車場:無料(裏参道より入る)
撮影日:2022年3月9日
資料等:現地説明版など、

古墳名:横地山古墳箱式石棺
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場 所:三島公園(見学自由)
住 所:愛媛県四国中央市中曽根町
表示さている所より南方のクレーターのように写っているところ。
形 式:
規 模:墳丘には、直径7.5m、高さ1mの封土
石 室:
羨 道:
築造期:弥生時代後期
史跡指定:四国中央市指定史跡 昭和三十七年四月一日
解 説:封土の周りには河原石を並べて周縁部を形成していた。この封土の中に二基の箱式石棺が並列して構築されていた。
 東側の一号石棺は、長さ1.6m、幅0.42m、深さ0.24mで、一部破壊されていた。
 西側の二号石棺は、長さ2.0m、幅0.50m、深さ0.35mで、頭を南に仰臥伸展葬された人骨が出土し、鳥取大学小片保教授の研究により壮年男子と推定された。頭部及び石棺内部には酸化鉄の朱色が塗られていた。弥生時代後期の墳墓と推定されている。
資料等:現地説明版、
撮影日:2022年3月9日
駐車場:三島公園駐車場(無料)
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