四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 高知県田野町

現在施設名:岡御殿
住 所:高知県安芸郡田野町2147-1
所在地 マピオンマップ↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/33.42659948120502,134.0093502215763,19
マップコード↓↓↓↓
421 601 703*84
電 話:0887-38-3385
文化財指定:高知県有形重要文化財=昭和60年4月2日
建築年代:天保15年
改築等:平成9年修復
用途区分:
残存建物:主屋など
公開状況:有料公開(200円確か?)管理人さんより説明もしてもらえます。
休館日:火曜日(休日の場合は翌日)12月29日~1月2日
開館時間:9:00~16:30
沿革等:
 岡家は米屋と号し、豪商田野五人衆の随一で、祖先岡氏は泉州から山内候に従って田野に来たと伝えられています。
 藩主の為だけに宿泊所として建てられた。伊能忠敬も滞在したようです。
資料等:下記HP、聞き取りなど。
H P:田野町HP
撮影日:2019年4月5日
近隣施設:旧岡家住宅(西の岡邸)
駐車場:無料(田野町ふれあいセンター)
豪商 岡家
むかしの田野は村方と浦方からなっていて、とても商業の盛んな場所でした。
江戸時代の後半、田野浦隋一の豪商が岡家でした。岡家の屋号は、印「一入(ひといり)」です。この「一入」という字は、紙に書いて裏返してみると「一人(ひとり)」と見え、田野浦で飛びぬけた一人ということを意味するとも言われています。
ところで、岡家の先祖は、山内候(土佐藩主)に従って泉州(大阪府)からこの地に来たと伝えられています。そして、この地で初代岡徳左衛門という人が商いを始めました。その後の代々の当主も商いに励み、豪商と呼ばれる程の富を築き上げました。

561

562

563

564

565

566

567

568

569

569

5610

5611

5612

5613

5614-2

5615

5616

5617

5618






旧岡家住宅(西の岡邸)
現在施設名:
住 所:高知県安芸郡田野町1846-2
所在地 マピオンマップ↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/33.426659922054455,134.00884060186357,19
マップコード↓↓↓↓
421 601 701*38
電 話:
文化財指定:高知県保護有形文化財〈建築物〉平成9年5月6日指定
建築年代:不明
改築等:
用途区分:
残存建物:主屋
公開状況:無料公開
休館日:火曜日(休日の場合は翌日)
開館時間:9:00~16:30
沿革等
 古くは西の岡と呼ばれ、土佐藩主の東部巡視の際、脇本陣として藩の重臣が宿泊した。
 元々岡家の分家であり、長く製材や廻船を生業とする豪商の家だった。
 平成29年度にタレントのユージ氏と地域内外のボランティアが一体となって庭の再生に取り組み、石庭が完成した。
駐車場:無料(田野町ふれあいセンター) 
資料等:田野町HP、高知の文化財、現地説明板など、
H P:http://www.chugei.or.jp/tano/tourism/tourism-549
撮影日:2019年4月5日
近隣施設:岡御殿、幕末の志士関係多数、

561

562

563

564

565

566

567

568

569

5610



寺 名:見龍山 宝徳院 福田寺(ふくでんじ)
本 尊:阿弥陀如来
創 始:
宗 派:浄土宗西山禅林寺派
住 所:高知県安芸郡田野町339
電 話:0887-38-2954
由 緒:
解 説:
文化財:
資 料:現地説明板&日本の神社・寺院検索サイト様など
撮影日:2014年9月26日
近隣施設:二十三士公園、道の駅「田野駅屋」、岡御殿、

二十三士と武市瑞山
 江戸で薩長の志士と手を携え「尊王攘夷」の運動に立ち上がる約束をして土佐に帰って来た武市瑞山(半平太)は、藩内の同志「土佐勤王党」を結成し、「公武合体」の藩論を「尊攘」に転換さすべく建議し成功するかに見えた矢先、文久三年(1863)八月の政変で水泡に帰し、前の藩主山内容堂の頑固な公武合体論と藩の上層部と長宗我部の遺臣即ち上士と下士の対立感情も底流に働いて、次々に弾圧の嵐が吹き瑞山も獄中に在り、一藩勤王の目的は挫折した。
 土佐藩内七郡相呼応する結束も次第に崩れ清岡道之助えお首領と仰ぐ安芸郡下の二十三士だけととなり、岩佐の関所から藩庁へ、「藩政改革・攘夷・瑞山の釈放」の嘆願書を差し出したが、藩より反乱を企てる不逞の徒として討伐の兵を送られ、志士は阿波で捕らわれて岡地の獄舎で一夜を明し、唯一度の取り調べもなく元治元年(1864)九月五日、奈半利の磧を朱に染め節議に殉じた。
 昭和五十五年十二月十五日 田野町委員会 説明板より転載しました。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

二十三士の墓
イメージ 6

イメージ 7

二十三士顕彰碑
 二十三士が処刑されて、三年後、明治維新の大業がなった。
 明治十年、遺族に族禄が復活され、明治二十四年、特旨をもって贈位の沙汰があった。
 明治三十年、かっての同志で、当時の高知県知事であった石田英吉の発議により、この碑が建てられた。
 題字は、伯爵東久世通禧による。
イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

詳しい地図で見る

↑このページのトップヘ