四国観光スポットblog

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カテゴリ: 愛媛県伊予市

藤谷隆太郎胸像
【明治31年(1898)9月25日~昭和38年(1963)10月9日】

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業 績:農業振興及び農業団体活動
出身地:北山崎村(現伊予市)
住 所:愛媛県伊予市稲荷1231
場 所:伊予稲荷神社

解 説:
 北山崎村稲荷に藤谷喜之寿計の二男として生まれた。大正七年松山農業学校を卒業後同校助手、更に喜多郡出海村で農会及び養蚕組合技術員として数年間勤めた後、大正10年(1921)帰郷して北山崎村農会技術員・同村青年団長、更に同村青年指導員として青年教育の指導に当たった。
 大正14年(1925)10月、伊予郡農会技手並びに伊予郡連合青年団長となり、農会の振興及び青年団の育成と教育を行った、昭和15年11月、大政翼賛会愛媛県支部組織部長、実践部長となり、同17年に大政翼賛会愛媛県本部長、更に翌18年には食糧増産隊愛媛県隊長に就任した。
 戦後は愛媛県農業協同組合中央会会長など農業団体の要職を歴任した。氏は頭脳明晰、豪放闊達、名利に淡白で熱情と実践力に富み、その一生を県下各地の青壮年の指導と農業振興及び農業団体活動の推進にささげた。
資 料:愛媛県生涯学習センター・データベース、
撮影日:2020年10月21日
関連BLOG:伊予稲荷神社

寺 名:臨江山・遍照院・稱名寺
本 尊:阿弥陀如来
開 基:宗貞
創 建:嘉祥3年(850)
宗 派:真言宗智山派
札 所:新四国曼荼羅霊場四十八番札所
住 所:愛媛県伊予市上吾川1418

電 話:089-982-1710
由 緒
 文治5年(1189)に源範頼の菩提のために再建され、伊豫岡八幡神社の別当寺として中世のころから伊予郡を代表する大寺院だった。
駐車場:無料
撮影日:2020年10月21日
近隣施設:伊豫稲荷神社


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神社名:伊豫稲荷神社
祭 神:宇迦之御魂大神・邇々芸命・伊邪那美命・菊理比売命・大宮能売命
創 建:伝弘化年間
創 基:
社 格:県社
霊 場:新四国曼荼羅霊場第49番
住 所:愛媛県伊予市稲荷1230

電 話:089-982-1060
由 緒
 氏子地は、旧二町十ヶ村に及び、平安時代は伊豫国司の保田地、山崎保であったが、仁平三年(1153)に伏見稲荷大社の荘園となった。
 山崎荘は後に河野氏の所領となり、山崎庄と呼ばれ、神領地として稲荷村の知行が神主に安堵された。
 藩政時代は大洲領、後に分藩した新谷領となったが、氏子地は両藩にわたり、両藩主の祈祷所とされた。
 信仰上、神仏習合と呼ばれる時代には、谷上山宝寿寺末院の十二坊が参道に並び建っていたが、正保四年(1647)頃、唯一神道を主張する星右京太夫によって社僧が追い払われ十二坊は廃された。
 享和二年(1802)朝廷より、正一位の神位が勅許になり、明治の制では郷社、昭和八年に県社となた。
H P:
文化財等:
駐車場:無料
撮影日:2020年10月21日
資料等:現地説明版、Wikipediaなど、
近隣施設:

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神社名:山吹御前神社(御前さん)
主祭神:山吹御前
創 建:
創 基:
社 格:
住 所:愛媛県伊予市中山町佐礼谷
マピオンマップ↓↓↓↓↓
電 話:
由 緒:
札所等: 
解 説
 本殿は、時の元里正(元村長)、鷹尾吉循翁の支援のもと地元七名の世話人により近隣篤志家の人々の力を併せて成就された。
 明治二十五年旧閏六月十日 寄付事始め
 明治二十六年旧二月十八日 大工仕事始め
 明治二十七年旧十一月十日 落成式
 大工統領 山口県大島郡西方村 門井 友祐
 左官   中山村長沢     宮田 六太郎
 門井友祐は明治二十一年から大正九年にかけて、実に三十年以上にわたって、伊予地の寺社の建築や彫刻に当たった宮大工集団の頭領であった。
 なお、本殿新築に併せて、春秋二回(当時)の祭礼も定められていた。(毎年四月十八日 祝宴・九月十八日 余與 子供角力)
 拝殿は、昭和三十四年四月に再建されたが、集会場を兼ねたものとした為、破格のものとなった。
 本殿保護の為の高葺は、平成十六年十二月に新築された。
伝 説
 伊豆に流されていた源氏の本流「源頼朝」が平家追討の為に挙兵した。これに呼応して従兄弟の「木曽義仲」が長野県木曽谷で挙兵したのは治承四年(1180)九月のことであった。義仲は北陸道を進んで京を目指したが、養和元年二月(1181)平清盛が崩じ、源氏の気勢は挙がった。寿永二年(1183)五月、平維盛の率いる大軍に対し、松明を角につけた牛の大群を放ち俱和伽羅峠より京都に迫った。その勢いはあたかも昇る朝日の様であり、人々は朝日将軍と呼んだ。平家はこれを恐れ安徳天皇を奉じて西国に走ったので義仲は七月京に入った。
 当時の京都は猛暑の上に養和・寿永の飢餓と悪疫の為死者は五万人を越えたといわれる。こんな中で本来寄せ集めの義仲軍の統制は乱れ民に対する乱暴が続いた為、後日後白河法皇は、源頼朝に義仲軍追討を命じ、弟源範頼・義経の大軍が京に迫った。
 平家物語巻九に「木曽は信濃を出でしより巴・山吹とて二人の美女を具せられたり山吹はいたわりあって都に止まりぬ」とある。義仲は巴のみを連れて追討軍に立ち向かい寿永三年(1184)正月滋賀県粟津ヶ原に敗死する。次いで義経らは平家追討の手をゆるめず二月一の谷の戦いで平家一門を四国へ追い翌寿永四年(1185)二月にはこれを屋島に破り、遂には、三月二十四日壇の浦に平家を亡ぼすことになる。
 こんなあわだしい正史の裏側で、いたわりあって京に止まった山吹は生前伊予守であった義仲のゆかりもあってか、少数の供と共に伊予を目指して落ちて行ったと思われる。しかし、その伊予の国として、文治二年(1186)他の伊豆・相模等五ヶ国と共に頼朝の所領となった程で頼れる先も失われ一行に対する風は冷たかった。
 某月某日一隻の舟が伊予の灘浦(元伊予市双海町上灘)に着いた。ひそかに上陸した僅かな人影に囲まれていたのは病んでいた山吹御前であった。
 一行は隠れ里を求め、上灘川の流れに沿って真東に見える山方に向かって進んだ。そして現在の伊予市双海町大栄口翠小学校の所より坂道にかかる。一行は思案の末、竹を切って笹舟とし、これに次第に衰えを見せる山吹御前を乗せ右手の山肌を斜行しながら遂に山頂まで引き上げた。これはさながら人形浄瑠璃「ひらがな盛衰記笹引き段」の光景と同様であり、其処に活写されたと言っても過言でない。この時より、人々はこの山坂を「曳き坂」と呼び、辿り着いた山頂で山吹御前を真中にして盾を立て従者がこれを囲んで恐らくは一夜を明かした地を「築盾」という。またその辺りの集落を「高見」と呼ぶのは遥か伊予灘の彼方を望見して、追手を警戒すると共に沈む夕日に漂泊の思いを深くしたと思われる。
 一行は更に勇を鼓し現在の国道56号を東に向かって横切り山に分け入って伊予市中山町佐礼谷平野に出て川の流れ逆らって日浦に至ったが、もうその間に、山吹御前は波乱と薄幸の生涯を終えたと思われ衣裳替え地と呼ばれる小祠の所で死装束に改められた。
 素朴で心優しい日浦の人々は、こおの美しい貴人がこの地を永遠の隠れ里としたことに感激し、従者と共に地を選んで鄭重に葬ると共にその上に五輪塔を建てた。更に時代により消長はあったが、旧大洲街道を隔てて山吹御前を神とする社を造営した。何れも山吹御前の故里に対して東向きとし此の地を「小字山吹」と呼ぶ。山吹御前の神徳とこおれに示された先祖達の優しい心は、蛍の里日浦の源氏蛍の青い光と共に末永く伝えていきたい。
H P:
文化財等:
資料等:現地説明板、
駐車場:なし
アクセス:松山より国道56号南下、伊予市中山町長沢交差点より左折県道225号左手に川沿いを走るようになると左側に膨らみのある路側が有り(此処に車を止める)右手に集落に渡る橋が架かっている。其処に標識があるが文字は反対側からしか見えない。(行き過ぎると三差路になる)渡って舗装されてない地道進む(途中より舗装されている)と左側に古ぼけた五輪塔がある。
撮影日:2018年9月17日

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本殿
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駅 名:串駅
鉄道会社:JR四国株式会社
路線名:予讃線
駅構造:単式1面1線のホームを持つ地上駅。無人駅である。自動券売機はない。
解説等:秘境駅ランキング149位。小高い所にある駅で、ホームからは、豊後水道が一望できる。串駅から直ぐ長浜駅よりにある鉄橋が綺麗。
住 所:愛媛県伊予市双海町串
文化財:
周辺観光施設:白滝(モミジ)、沖浦観音、長浜大橋
資料等:Wikipedia&秘境駅に行こう様WEB
撮影日:2014年11月6日

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