四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 徳島県鳴門市

神社名:宇志比古神社
祭 神:宇志比古尊・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后
創 建:
創 基:
社 格:式内社・郷社
住 所:徳島県鳴門市大麻町大谷

電 話:
由 緒
 天正年間(1573~1593)に長宗我部元親の乱入により社殿、古記録、社宝を焼失したが、後に再興された。江戸時代には八幡宮と呼ばれ、明治以降に宇志比古神社を称している。
 徳島県内で現存する神社本殿では最古。
 隣にある八葉山・神宮寺・東林院が別当であった。
H P:
文化財等:本殿=重要文化財 平成12年(2000)12月4日に指定
駐車場:無料
撮影日:2019年4月5日
資料等:Wikipediaなど、

寺 名:八葉山・神宮寺・東林院
本 尊:薬師如来・愛染明王
開 基:伝 行基
創 建:伝 天平5年(733)
宗 派:高野山真言宗
札 所:四国八十八箇所霊場第一番札所奥の院、新四国曼荼羅霊場第一番札所、阿波北嶺薬師霊場第十六番札所
住 所:徳島県鳴門市大麻町大谷山田59

電 話:
由 緒
 大谷八幡宮(宇志比古神社)の別当寺であり、「神宮寺」は当時の多くの塔頭の中の本寺の寺号。別名、種蒔弘法大師、種蒔大師と呼ばれる。
 前回記事を参照ください。
資料等:現地説明版、Wikipediaなど、
駐車場:無料
撮影日:2019年12月12日

神社名:阿波神社
祭 神:土御門天皇
創 建:
創 基:
社 格:旧県社
住 所:徳島県鳴門市大麻町池谷
電 話:
由 緒
 土御門天皇は承久の乱後、承久3年(1221)に土佐国へ遷幸、貞応2年(1223)にはさらに阿波国に移り、約9年後の寛喜3年(1231)に崩御し、その行在所は守護所に近い勝瑞(現藍住町)に比定する説がある。人々は土御門天皇火葬塚の北に通称「天皇さん」と呼ぶ土御門天皇社を奉祀、阿波志には「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」とみえる。その後、明治8年(1875)に丸山神社と改称。 昭和15年(1940)には紀元二千六百年記念行事として、社名を阿波神社に改め、火葬塚の北東に隣接する現在地に新たに社殿を造営した。県民挙げての奉賛と勤労祀仕によって昭和18年(1943)に竣工し、本殿座祭を斎行。
 土御門天皇:Wikipedia
駐車場:無料
撮影日:2020年4月20日
関連記事:御所神社
資料等:現地説明版、Wikipediaなど、
近隣施設:東林寺、金泉寺

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寺 名:豊山・神楽院・長谷寺(ちょうこくじ)
本 尊:十一面観音菩薩
開 基:文明12年(1480)
開 山:船戸左衛門尉次正
宗 派:高野山真言宗
札 所:新四国曼荼羅霊場第二番札所、阿波北嶺薬師霊場第十九番札所
住 所:徳島県鳴門市撫養町木津1037-1
マピオンマップ↓↓↓↓

電 話:088-686-2450
由 緒:
解 説:阿波駅路寺八ヶ寺(蜂須賀家政が定めた徳島藩独特の制度) 【駅路寺は阿波九城(廃城)との関連で設置されたとする説が有力。】川北(吉野川北側)・伊予(吉野川南側)・淡路・讃岐・土佐の五街道に沿いの真言宗のお寺が選ばれた。
文化財:
資 料:Wikipedia、徳島大学総合科学部 人間社会文化研究【徳島藩駅路寺制に関する一考察】下記ページより
H P:参照PDF file:///C:/Users/user/Downloads/LID201202222002.pdf
駐車場:無料
撮影日:2018年12月14日
近隣施設:霊山寺安楽寺(駅路寺・瑞雲寺合併)、

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坂東俘虜収容所跡公園(ドイツ村公園)
住 所:徳島県鳴門市大麻町桧丸山
マピオンマップ↓↓↓↓

解説等:
 大正時代、日本とドイツが中国青島で交戦した「日独戦争」によって、捕虜となったドイツ兵のうち約1000人が、ここ「坂東俘虜収容所」に収容されていました。この収容所では所長の松江豊壽大佐の人道的配慮により、規則の範囲内において自由な収容所生活を送ることができました。ドイツ兵たちは自主的に文化・スポーツ活動や、農業・土木建築作業に打ち込み、地域住民とも様々な交流を行っています。
開 園:
 昭和53年には、収容所跡地と、ドイツ兵と地元住民との交流の史実を後世に残すため、坂東俘虜収容所跡の一部が「ドイツ村公園」として整備されました。
 この公園では、ドイツ兵たちが寝泊まりしていた兵舎跡や、川の水を利用した給水施設あと、製パン所跡や、便所跡などが残っており、当時の生活を窺うことができます。
 また、収容期間中に亡くなった兵士を弔むため、ドイツ兵士たち自身が建立した「ドイツ兵慰霊碑」や、日本各地の収容所で亡くなった全てのドイツ兵の慰霊のために、昭和51年に建設された「合同慰霊碑」があり、今でも多くの方が訪れます。

HP:坂東俘虜収容所の軌跡
撮影日:2017年1月11日
資料等:現地説明板

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給水施設跡
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