四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 香川県高松市

花園町の由来記念碑
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住 所:香川県高松市花園町
解 説
 高松が城下町が出来たころ、この辺りは静かな郊外で、眺めがよく、はるか北の沖松島の八丁土手辺りに美しい松並木が見えたという。
 江戸時代のいくつかの城下絵図には、花畠と記されており、一面の花園であったらしい。
 高松城を築いた生駒家の別荘がこの地にあったが、松平家になって、初代藩主頼重公は、この別荘を老臣彦坂織部正に与え「静観荘」と名付けられた。
 また、その北側には重臣谷有馬の「詠帰亭」があり、この辺りは別荘地であったことが伺える。
 また、藩医池田玄丈が五代藩主頼恭公の命により砂糖きびを栽培したのもこの花畠であったといわれる。
 大正十年に花園町が誕生したが、花園という地名は江戸時代の花畠に由来する。
建 立:平成六年十月吉日 花園地区地域おこし事業推進委員会
 書 :
資 料:現地説明石碑など、
撮影日:2018年10月8日

名 称:大石さんのムクノキ(椋木)
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別 名:モクノキ(杢の木)
樹木名:アサ科ムクノキ属
指定区分:高松市天然記念物=昭和50年(1975)3月13日指定・香川の保存木96=昭和55年11月6日
樹 齢:
樹 高:約22.0m
胸高周囲:約4.6m
枝張り:東西22.0m、南北31.0m
解 説:
場 所:大石神社境内
住 所:高松市西山崎町1328番2

資 料:現地説明板、高松市HPなど、
撮影日:2023年7月18日
関連記事:大石神社

小河謙三郎翁壽胸像
【詳細不明】
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業 績:篤志家
出身地:香川県高松市
場 所:高松市中央公園

解 説:
 この地は、永年市民に親しまれ、幾多の名選手を生み育てた高松市立中央球場あとである。
 同球場は、昭和二十二年五月故小河謙三郎翁はじめ、野球を愛する多くの市民の熱意と献身により建設され、爾来、三十余年に亘り我々の心に潤いと活力を与えてきたものである。
 このたび、中央公園の整備にともない中央球場に飾られていた同翁の胸像をここに移し、同球場を記念するとともに、氏の功績を称え、ここに顕彰する。昭和六十年十二月 高松市長
 小河謙三郎翁は、高松の富商の生まれで、代々、松平家に仕え、藩主から租税徴収の役目を命じられるほどの家格であったが、商用で大阪へ出張するうちにコメ相場の魅力にとりつかれ、店を処分し、その金を持って大阪に移り住んだ。
 米相場で大成功し、堂島屈指の相場師として名を馳せた人物だそうです。
公共事業や救済義捐、郷里の学校や神社、仏閣などに寄付を惜しまない人であったということです。
像製作者:新田藤太郎(多くの銅像を残している)
資 料:現地説明板など、
撮影日:2018年10月12日

お堂名:熊谷堂(熊谷入道住居跡)

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開 基:
創 建:
宗 派:
札 所:
住 所:香川県高松市香南町西庄

電 話:
由 緒
 西庄字西ノ原の井上家の西隣に熊谷直美が住んでいたという跡地がある。今そこには多くの信者によりお堂が建てられ、丁重に祀られている。
 ここに掲額されている『熊谷入道遺跡略縁起』は次の通りである。
 〔抑熊谷法力房蓮生法師直実は武蔵の国の住人熊谷の地頭、平の直貞の三男にして、平治・治承・寿永の頃、所々の戦に武勇を顕し、而て元歴元年(1184)三月六日九郎半官義経は鷲尾経春を先導として、鵯越から一の谷へ逆落しに攻めかけ、要害堅固を恃んでいた平家、計らざる不意打ちに狼狽して舟に乗り海に遁れんと汀に落ち行く。熊谷は今日も好き敵御座れと東西を窺うていた折、無官の大夫敦盛卿ただ一騎中納言知盛卿の舟へと志し落ちんとする所、日本一の剛の者熊谷次郎直美と名を呼びかけて取り組めば、天晴剛の者と思い見れば十六七才の若年者なり。さすが熊谷も思わず涙を流し、あらあさましや、倅小次郎と同年なるか、義理と情に挟まれた。今や陸には源氏の将兵充ち満ちて沖ものがれ難しとて首打てば、剛の者熊谷も思わず有為転変無常を感じ、所領と妻子を捨て都吉水に登り、法然房源空上人の弟子となる。 弥陀の本願の妙旨を聞きてより無二の信者となり、殊に不背柴法の願を立てその後吾妻下りの砌には西方後向も事を恐れ馬を逆に乗りけるが「浄土にも剛の者をや沙汰すらん西に向かひて後を見せねば」と詠わせし程の信念堅かりしを以て上人常に坂東が阿弥陀仏と仰せられける。 平家の軍は讃岐屋島に拠る。源氏は之攻める敵、味方の将兵戦死者多し、弥陀の御本尊を戴いた熊谷はとる物もとりあへず屋島にこられた。特に源氏の軍は兵器・軍馬の集散地、千疋・池西に来る。この地を昔より老人の言い伝えによれば、熊谷屋敷と云う伝えてあり、その後、この地に人永住できず。 老齢者に聞けば、天保七年には嘉吉、安政五年山中冬吉、明治五年小原宇一、明治三十年小原ツイ、明治大正にかけて由良半造、昭和年間井上氏この地を田畑に改め御名号のあの所が熊谷屋敷その南側の土地が堂の前と云う所、この所を綾南六ヶ村及び池西・川岡・円座の一味同行相計り、このたび御堂を建立して信念堅くし、熊谷蓮生房の史跡を拝し後の世のため古きを尋ね今を知り皆共々に史跡を偲びましょう。 昭和四十四年秋吉日〕
 なお、熊谷次郎直実の讃岐に関する事柄については、『全讃史』にも次のような記録が記載されいるので、このあたりにこられたことは事実であろう。
 承元元年(1207)二月、法然上人の此の国に流謫されたとき、西念寺に宿りをされた。蓮生坊も従い来って此の処にいた。然るに五年赦免に遇って京に帰られ、蓮生も従い帰って死んだ、思うに里人がその死を聞いてこの墓を作ったのであろう。
 念仏修行の地

資料等:「綾南町史」など
駐車場:無
撮影日:2023年5月1日
関連ブログ:西念寺誕生寺

仏生山・来迎院・法然寺
【如来塔】
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本 尊:阿弥陀如来立像 伝 法然作
開 基:松平頼重
創 建:寛文8年(1668)
宗 派:浄土宗
札 所:法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天。
住 所:香川県高松市仏生山町字仏生山甲3215番地

電 話:087-889-0406
由 緒:この如来塔は、高松藩祖、松平頼重公が法然寺開堂以来の仏生山の歴史を示すとともに、全国無縁墓研究家であり墓相学の大家でもある「松崎整道」の指導により完成した日本で稀にみる様式の無縁墓です。
 昭和十五年に松崎先生が四国旅行に来られた時、仏生山町出身(大阪在住)真鍋ハマ子・森垣泰三の両氏が法然寺に招き山内の墓地を見て回り、その際先生は無縁墓の多いことを嘆かれ、住職細井照道上人に無縁墓を建立することを勧められた。その時信仰深い両氏は多額の建設費を寄進された。
 細井照道上人はこれを如来塔と命名し時を同じくしの吉岡興業を招き二ヶ年の歳月を費やして約三千基を集め四基のピラミッド型無縁墓が建てられた。
文化財:
資 料:現地説明板など、
H P:http://www.ark-a.com/nature/cat1_1/main.htm
駐車場:無料
関連記事:西念寺
撮影日:2023年2月6日

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