四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の賢人・偉人像

小河謙三郎翁壽胸像
【詳細不明】
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業 績:篤志家
出身地:香川県高松市
場 所:高松市中央公園

解 説:
 この地は、永年市民に親しまれ、幾多の名選手を生み育てた高松市立中央球場あとである。
 同球場は、昭和二十二年五月故小河謙三郎翁はじめ、野球を愛する多くの市民の熱意と献身により建設され、爾来、三十余年に亘り我々の心に潤いと活力を与えてきたものである。
 このたび、中央公園の整備にともない中央球場に飾られていた同翁の胸像をここに移し、同球場を記念するとともに、氏の功績を称え、ここに顕彰する。昭和六十年十二月 高松市長
 小河謙三郎翁は、高松の富商の生まれで、代々、松平家に仕え、藩主から租税徴収の役目を命じられるほどの家格であったが、商用で大阪へ出張するうちにコメ相場の魅力にとりつかれ、店を処分し、その金を持って大阪に移り住んだ。
 米相場で大成功し、堂島屈指の相場師として名を馳せた人物だそうです。
公共事業や救済義捐、郷里の学校や神社、仏閣などに寄付を惜しまない人であったということです。
像製作者:新田藤太郎(多くの銅像を残している)
資 料:現地説明板など、
撮影日:2018年10月12日

藤谷隆太郎胸像
【明治31年(1898)9月25日~昭和38年(1963)10月9日】

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業 績:農業振興及び農業団体活動
出身地:北山崎村(現伊予市)
住 所:愛媛県伊予市稲荷1231
場 所:伊予稲荷神社

解 説:
 北山崎村稲荷に藤谷喜之寿計の二男として生まれた。大正七年松山農業学校を卒業後同校助手、更に喜多郡出海村で農会及び養蚕組合技術員として数年間勤めた後、大正10年(1921)帰郷して北山崎村農会技術員・同村青年団長、更に同村青年指導員として青年教育の指導に当たった。
 大正14年(1925)10月、伊予郡農会技手並びに伊予郡連合青年団長となり、農会の振興及び青年団の育成と教育を行った、昭和15年11月、大政翼賛会愛媛県支部組織部長、実践部長となり、同17年に大政翼賛会愛媛県本部長、更に翌18年には食糧増産隊愛媛県隊長に就任した。
 戦後は愛媛県農業協同組合中央会会長など農業団体の要職を歴任した。氏は頭脳明晰、豪放闊達、名利に淡白で熱情と実践力に富み、その一生を県下各地の青壮年の指導と農業振興及び農業団体活動の推進にささげた。
資 料:愛媛県生涯学習センター・データベース、
撮影日:2020年10月21日
関連BLOG:伊予稲荷神社

賢人名:生駒親正座像
時 代:【大永6年(1526)~慶長8年2月13日(1603年3月25日)】
父 親:生駒親重
号 名:
墓 所:利剣山・遍照光院・弘憲寺(高松市)
妻 名:高木正資養女
製作者:三枝惣太郎
建立者:高松市一番丁校区地域おこし事業推進委員会・高松市二番町校区地域住民一同
施 工:株式会社石の店山田
場 所:番町二丁目公園
住 所:香川県高松市番町2丁目
略 歴など
 生駒氏は藤原源氏の一流で、もと大和の生駒に住み、地名を氏とした。
 親正は、はじめ織田信長、ついで豊臣秀吉につかえて功があった。赤穂六万石を領し雅樂頭に任じられ、天正十五年(1587)八月、讃岐国十七万石に封ぜられた。
 親正は居城として、黒田如水の設計で、香東郡箆原荘(のはらのしょう)海辺の八輪島に城を築くことを決め、この地を屋島の南にあった高松郷の名をとり高松と名付けた。天正十六年に城下の町づくりを進め、町割りは士農工商の分に応じて居住区域が定められた。城の南から西にかけては重臣が配され、さらに市街、西部の一番丁、三番丁は侍屋敷、東北部から南部にかけて、生活必需品を売る商人や武士に必要な品をつくろ職人を集団的に住まわせ商人職人町に区画させた。早く出来た町人町は、本町、津るや町(鶴屋町)などである。丸亀から移住させた商人たちの丸亀町。職人町では大工町など、今も当時の名をとどめている。
 城は、西と東に舟入を設け、南方だけが陸地で、水陸の攻防と水運を考えた水城である。
 生駒親正から一正・正俊・高俊と四代五十四年の間今日の高松の基礎を築いた。後に寛永十九年には、約一万三千人の人口であった。
 高俊の時、家臣西嶋八兵衛を伊勢より招き香東川に変更、溜池などの土木事業を完成。大きな発展を遂げたが、家臣の争いによる生駒騒動のため、生駒高俊は出羽国(秋田県由利本荘市)矢島に退転させられた。親正は
 
資料等:Wikipedia、現地説明板など、
撮影日:2020年1月30日
近隣施設:法泉寺
駐車場:無し

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賢人名:武市瑞山
通称名:半平太
時 代:江戸時代末期【文政12年9月27日(1829年10月24日)~慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)】
幼 名:鹿衛
号 名:瑞山、茗澗、
墓 所:瑞山神社
妻 名:富子(島村氏)
製作者:原 寛山(ブロンズ)
建立者:武市半平太先生銅像建設期成会
場 所:横浪黒潮ライン (便所・駐車場)
住 所:高知県須崎市浦ノ内須ノ浦
マピオンマップ↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/33.40736148344416,133.38805137208013,19
旧 宅:高知市仁井田3021  
解説等:下記Wikipedia参照
資料等:Wikipedia、 現地銘鈑など
撮影日:2018年2月21日
近隣施設:青龍寺
関連BLOG :福田寺

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中浜万次郎像
作 家:西 常雄
材 料:ブロンズ
制作年:
鋳 造:岡宮 紀秀
石 工:弘田 禎亮・吉木 光夫
設置場所:足摺岬入口
住 所:高知県土佐清水市足摺町
マピオンマップ↓↓↓↓↓

解 説
 中浜万次郎 1827~1898
 中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。
 万次郎は、この足摺岬にほど近い「中の浜」の貧しい漁夫の次男に生まれた。14歳のとき出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島鳥島吹き流されが、半年ののち運よく通りかかったアメリカの捕鯨船「john Howland」号に救助された。船長は、万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけた。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第一号となった。彼は10年に及ぶ国外生活中「J0hn Mung」と呼ばれ英語、航海術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。
 しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこに残してきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきた。
 とき、1851年2月、かの黒船の来航にさきだつこと2年であった。このような時機も幸いして、彼は罪にとらわれなかったばかりか、苗字帯刀をゆるされ幕府の直参に取り立てられた。
 これより中浜万次郎は外国事情の講和やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日を送ることになった。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには彼の優れた航海術が大きな力となっていた。
 帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。
 明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任じられた。数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。

~作家 略 歴~

撮影日:2016年4月14日

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