四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の賢人・偉人像

賢人名:武市瑞山
通称名:半平太
時 代:江戸時代末期【文政12年9月27日(1829年10月24日)~慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)】
幼 名:鹿衛
号 名:瑞山、茗澗、
墓 所:瑞山神社
妻 名:富子(島村氏)
製作者:原 寛山(ブロンズ)
建立者:武市半平太先生銅像建設期成会
場 所:横浪黒潮ライン (便所・駐車場)
住 所:高知県須崎市浦ノ内須ノ浦
マピオンマップ↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/33.40736148344416,133.38805137208013,19
旧 宅:高知市仁井田3021  
解説等:下記Wikipedia参照
資料等:Wikipedia、 現地銘鈑など
撮影日:2018年2月21日
近隣施設:青龍寺
関連BLOG :福田寺

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中浜万次郎像
作 家:西 常雄
材 料:ブロンズ
制作年:
鋳 造:岡宮 紀秀
石 工:弘田 禎亮・吉木 光夫
設置場所:足摺岬入口
住 所:高知県土佐清水市足摺町
マピオンマップ↓↓↓↓↓

解 説
 中浜万次郎 1827~1898
 中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。
 万次郎は、この足摺岬にほど近い「中の浜」の貧しい漁夫の次男に生まれた。14歳のとき出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島鳥島吹き流されが、半年ののち運よく通りかかったアメリカの捕鯨船「john Howland」号に救助された。船長は、万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけた。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第一号となった。彼は10年に及ぶ国外生活中「J0hn Mung」と呼ばれ英語、航海術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。
 しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこに残してきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきた。
 とき、1851年2月、かの黒船の来航にさきだつこと2年であった。このような時機も幸いして、彼は罪にとらわれなかったばかりか、苗字帯刀をゆるされ幕府の直参に取り立てられた。
 これより中浜万次郎は外国事情の講和やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日を送ることになった。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには彼の優れた航海術が大きな力となっていた。
 帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。
 明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任じられた。数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。

~作家 略 歴~

撮影日:2016年4月14日

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中岡慎太郎像
作 家:本山 白雲
材 料:ブロンズ
制作年:1935年
設置場所:室戸岬
住 所:高知県室戸市室戸岬町
解 説
中岡慎太郎
 天保九年四月十三日、土佐安芸郡北川村に生まれる。幕末の天下の志士と交友し陸援隊を組織し、その長となり海援隊長坂本龍馬と共に薩長連合をはかり明治維新の大業に尽力したが慶応三年十一月十五日、夜京都において刺客のため斃れた。
 昭和十年 安芸郡連合青年団・室戸岬町青年団建立 

~略 歴~
明治4年9月1日(1871年10月14日) 土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下で生まれる
明治23年(1890年7月)宿毛出身の岩村通俊の援助を得て、東京美術学校(現 東京芸術大学)彫刻本科に入学
明治27年(1894年)東京美術学校を卒業
昭和27年(1952年)2月18日没

~パブリックコレクション~
1935年 中岡慎太郎像 室戸岬(高知県室戸市)

資 料:現地石碑など
撮影日:2015年12月9日

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山内 一豊像
作 家:本山 白雲
材 料:ブロンズ
制作年:この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとに平成8年(1996)に再建除幕された。
設置場所:高知城公園
住 所:高知県高知市丸の内1丁目
解 説:
 土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(現愛知県)岩倉城主織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1576)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下(きか)として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(現滋賀県)長浜2万国の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(現静岡県)掛川5万国を領した。
 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの功績により、土佐一国24万国を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
資 料:Wikipedia、現地説明板
撮影日:2010年12月8日

本山白雲(辰吉)
本山 白雲、
明治4年9月1日(1871年10月14日)~ 昭和27年(1952年2月18日)
 日本の銅像作家。高知市桂浜の坂本龍馬の銅像の作者。本名は本山辰吉、「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた。

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板垣 退助像(老年期の像)
作 家:本山 白雲(辰吉)
材 料:ブロンズ
制作年:大正12年(1923)12月5日、高知城公園に建立。昭和18年(1943)9月2日金属供出せられ、のち再建)
設置場所:高知城登城口
住 所:高知県高知市丸の内 城内

~略 歴~
明治4年9月1日(1871年10月14日) 土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下で生まれる
明治23年(1890年7月)宿毛出身の岩村通俊の援助を得て、東京美術学校(現 東京芸術大学)彫刻本科に入学
明治27年(1894年)東京美術学校を卒業
昭和27年(1952年)2月18日没

~パブリックコレクション~
1928年 坂本龍馬像 桂浜(高知市)
1935年 中岡新太郎像 室戸岬(高知県室戸市)
1996年 山内一豊像(復元) 高知城公園(高知市)
資 料:Wikipedia&現地紹介板
撮影日:2010年12月8日

板垣退助(1837~919)
 近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保八年(1837)四月十七日高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊辰戦役の折に先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。
 維新後、新政府の参議に列したがやがて下野。明治七年(1874)一月、民選議員設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年四月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。
 明治十四年(1881)十月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、四月六日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか。「板垣死すとも自由は死せず」の名文句となり、怒涛の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。
 明治二十年(1887)五月、伯爵を授けられたが一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任じられること二回、晩年は政界を隠退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正八年(19191)七月十六日、八十三才で死去した。
 遺著に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。

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