四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の民話伝説昔話

法然聖人御経塚碑
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法然堂アクセス道
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建 立:井上孝賢
住 所:香川県綾川町畑田

解説等:畑田村庄屋の「井上孝賢」は、偉大な法然上人の徳を偲び、上人のお造りになった経塚が道路から入り込み(当時は田んぼの縁にあった)、参拝に不便なので、塚の一部の経石を分けてもらい道路側に石塔様式(墓碑)の経塚を建てた。宮池日のほとりの経塚である。
資料等:綾川町史、googlemap、など
撮影日:

法然上人:杖掘の井戸
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場 所:香川県綾歌郡宇多津町青の山

伝 説
 承元元年(1207)浄土宗の元祖法然上人御歳七十五歳の御時、南都・北嶺の僧徒達の訴状に依り念仏停止の御法難に値い給い、追に当国塩飽本島に配流の身となりしが、源室もく流刑に処せられたあるはずば我亦配所に赴かずんや、もし我配所に赴かんずんば何によってか邊鄙(へんぴ=田舎)の羣類(ぐんるい=一切の生きもの)を化せんと御高齢をも、おいといなく各所に仏法弘通の御□労。数多の奇瑞(きずい=吉兆)を顕され折しも此の山峡へ御巡錫の砌、大旱魃に見舞われ土地の人人大いに嘆かれけるを上人非常に御憐み給い、御自ら杖を持って岩間に挿し給えは不思議なるかな清水湧き出し旱天続くも、涸れることなし、中略 上人の御遺徳を偲び杖掘りの井戸と称して崇敬の念絶えせざる也。
駐車場:有
資料等:現地石碑、コトバンクなど
撮影日:2022年3月13日

鬼ヶ塚
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場 所:香川県高松市鬼無町鬼無228

伝 説:鬼ヶ島の戦いで桃太郎に負けた鬼たちはこの地のセリ塚でもう一度戦いをしてまた負けてしまいました。その鬼たちを葬り供養したのが、この鬼ヶ塚です。平和になったこの地の事を鬼無の里と呼ばれるようになりました。
駐車場:有
資料等:現地石碑
撮影日:2020年10月9日
関連BLOG:桃太郎神社

神社名:山吹御前神社(御前さん)
主祭神:山吹御前
創 建:
創 基:
社 格:
住 所:愛媛県伊予市中山町佐礼谷
マピオンマップ↓↓↓↓↓
電 話:
由 緒:
札所等: 
解 説
 本殿は、時の元里正(元村長)、鷹尾吉循翁の支援のもと地元七名の世話人により近隣篤志家の人々の力を併せて成就された。
 明治二十五年旧閏六月十日 寄付事始め
 明治二十六年旧二月十八日 大工仕事始め
 明治二十七年旧十一月十日 落成式
 大工統領 山口県大島郡西方村 門井 友祐
 左官   中山村長沢     宮田 六太郎
 門井友祐は明治二十一年から大正九年にかけて、実に三十年以上にわたって、伊予地の寺社の建築や彫刻に当たった宮大工集団の頭領であった。
 なお、本殿新築に併せて、春秋二回(当時)の祭礼も定められていた。(毎年四月十八日 祝宴・九月十八日 余與 子供角力)
 拝殿は、昭和三十四年四月に再建されたが、集会場を兼ねたものとした為、破格のものとなった。
 本殿保護の為の高葺は、平成十六年十二月に新築された。
伝 説
 伊豆に流されていた源氏の本流「源頼朝」が平家追討の為に挙兵した。これに呼応して従兄弟の「木曽義仲」が長野県木曽谷で挙兵したのは治承四年(1180)九月のことであった。義仲は北陸道を進んで京を目指したが、養和元年二月(1181)平清盛が崩じ、源氏の気勢は挙がった。寿永二年(1183)五月、平維盛の率いる大軍に対し、松明を角につけた牛の大群を放ち俱和伽羅峠より京都に迫った。その勢いはあたかも昇る朝日の様であり、人々は朝日将軍と呼んだ。平家はこれを恐れ安徳天皇を奉じて西国に走ったので義仲は七月京に入った。
 当時の京都は猛暑の上に養和・寿永の飢餓と悪疫の為死者は五万人を越えたといわれる。こんな中で本来寄せ集めの義仲軍の統制は乱れ民に対する乱暴が続いた為、後日後白河法皇は、源頼朝に義仲軍追討を命じ、弟源範頼・義経の大軍が京に迫った。
 平家物語巻九に「木曽は信濃を出でしより巴・山吹とて二人の美女を具せられたり山吹はいたわりあって都に止まりぬ」とある。義仲は巴のみを連れて追討軍に立ち向かい寿永三年(1184)正月滋賀県粟津ヶ原に敗死する。次いで義経らは平家追討の手をゆるめず二月一の谷の戦いで平家一門を四国へ追い翌寿永四年(1185)二月にはこれを屋島に破り、遂には、三月二十四日壇の浦に平家を亡ぼすことになる。
 こんなあわだしい正史の裏側で、いたわりあって京に止まった山吹は生前伊予守であった義仲のゆかりもあってか、少数の供と共に伊予を目指して落ちて行ったと思われる。しかし、その伊予の国として、文治二年(1186)他の伊豆・相模等五ヶ国と共に頼朝の所領となった程で頼れる先も失われ一行に対する風は冷たかった。
 某月某日一隻の舟が伊予の灘浦(元伊予市双海町上灘)に着いた。ひそかに上陸した僅かな人影に囲まれていたのは病んでいた山吹御前であった。
 一行は隠れ里を求め、上灘川の流れに沿って真東に見える山方に向かって進んだ。そして現在の伊予市双海町大栄口翠小学校の所より坂道にかかる。一行は思案の末、竹を切って笹舟とし、これに次第に衰えを見せる山吹御前を乗せ右手の山肌を斜行しながら遂に山頂まで引き上げた。これはさながら人形浄瑠璃「ひらがな盛衰記笹引き段」の光景と同様であり、其処に活写されたと言っても過言でない。この時より、人々はこの山坂を「曳き坂」と呼び、辿り着いた山頂で山吹御前を真中にして盾を立て従者がこれを囲んで恐らくは一夜を明かした地を「築盾」という。またその辺りの集落を「高見」と呼ぶのは遥か伊予灘の彼方を望見して、追手を警戒すると共に沈む夕日に漂泊の思いを深くしたと思われる。
 一行は更に勇を鼓し現在の国道56号を東に向かって横切り山に分け入って伊予市中山町佐礼谷平野に出て川の流れ逆らって日浦に至ったが、もうその間に、山吹御前は波乱と薄幸の生涯を終えたと思われ衣裳替え地と呼ばれる小祠の所で死装束に改められた。
 素朴で心優しい日浦の人々は、こおの美しい貴人がこの地を永遠の隠れ里としたことに感激し、従者と共に地を選んで鄭重に葬ると共にその上に五輪塔を建てた。更に時代により消長はあったが、旧大洲街道を隔てて山吹御前を神とする社を造営した。何れも山吹御前の故里に対して東向きとし此の地を「小字山吹」と呼ぶ。山吹御前の神徳とこおれに示された先祖達の優しい心は、蛍の里日浦の源氏蛍の青い光と共に末永く伝えていきたい。
H P:
文化財等:
資料等:現地説明板、
駐車場:なし
アクセス:松山より国道56号南下、伊予市中山町長沢交差点より左折県道225号左手に川沿いを走るようになると左側に膨らみのある路側が有り(此処に車を止める)右手に集落に渡る橋が架かっている。其処に標識があるが文字は反対側からしか見えない。(行き過ぎると三差路になる)渡って舗装されてない地道進む(途中より舗装されている)と左側に古ぼけた五輪塔がある。
撮影日:2018年9月17日

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本殿
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羽床辰蔵の墓
住 所:香川県綾歌郡綾川町羽床下
場 所【マピオンマップ↓↓↓↓】

由 来
 讃岐三大仇討ちの一つ。【讃岐三大仇討とは羽床の研辰、丸亀の田宮坊太郎、観音寺の白縫(しらぬい)のことである。】
解 説:辰蔵は刀研師で酒癖が良くなかった。お客と嫁の不倫で怒り狂って二人とも切り捨てた。嫁の不倫相手の弟たちに仇討ちに遇ってしまう。この話は、歌舞伎にもなったようです。
人物像&経緯を下記のアドレスで詳細を読んで下さい。
資 料:綾南町誌(現綾川町)など
撮影日:2016年2月3日

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