四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の民話伝説昔話

神社名:山吹御前神社(御前さん)
主祭神:山吹御前
創 建:
創 基:
社 格:
住 所:愛媛県伊予市中山町佐礼谷
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電 話:
由 緒:
札所等: 
解 説
 本殿は、時の元里正(元村長)、鷹尾吉循翁の支援のもと地元七名の世話人により近隣篤志家の人々の力を併せて成就された。
 明治二十五年旧閏六月十日 寄付事始め
 明治二十六年旧二月十八日 大工仕事始め
 明治二十七年旧十一月十日 落成式
 大工統領 山口県大島郡西方村 門井 友祐
 左官   中山村長沢     宮田 六太郎
 門井友祐は明治二十一年から大正九年にかけて、実に三十年以上にわたって、伊予地の寺社の建築や彫刻に当たった宮大工集団の頭領であった。
 なお、本殿新築に併せて、春秋二回(当時)の祭礼も定められていた。(毎年四月十八日 祝宴・九月十八日 余與 子供角力)
 拝殿は、昭和三十四年四月に再建されたが、集会場を兼ねたものとした為、破格のものとなった。
 本殿保護の為の高葺は、平成十六年十二月に新築された。
伝 説
 伊豆に流されていた源氏の本流「源頼朝」が平家追討の為に挙兵した。これに呼応して従兄弟の「木曽義仲」が長野県木曽谷で挙兵したのは治承四年(1180)九月のことであった。義仲は北陸道を進んで京を目指したが、養和元年二月(1181)平清盛が崩じ、源氏の気勢は挙がった。寿永二年(1183)五月、平維盛の率いる大軍に対し、松明を角につけた牛の大群を放ち俱和伽羅峠より京都に迫った。その勢いはあたかも昇る朝日の様であり、人々は朝日将軍と呼んだ。平家はこれを恐れ安徳天皇を奉じて西国に走ったので義仲は七月京に入った。
 当時の京都は猛暑の上に養和・寿永の飢餓と悪疫の為死者は五万人を越えたといわれる。こんな中で本来寄せ集めの義仲軍の統制は乱れ民に対する乱暴が続いた為、後日後白河法皇は、源頼朝に義仲軍追討を命じ、弟源範頼・義経の大軍が京に迫った。
 平家物語巻九に「木曽は信濃を出でしより巴・山吹とて二人の美女を具せられたり山吹はいたわりあって都に止まりぬ」とある。義仲は巴のみを連れて追討軍に立ち向かい寿永三年(1184)正月滋賀県粟津ヶ原に敗死する。次いで義経らは平家追討の手をゆるめず二月一の谷の戦いで平家一門を四国へ追い翌寿永四年(1185)二月にはこれを屋島に破り、遂には、三月二十四日壇の浦に平家を亡ぼすことになる。
 こんなあわだしい正史の裏側で、いたわりあって京に止まった山吹は生前伊予守であった義仲のゆかりもあってか、少数の供と共に伊予を目指して落ちて行ったと思われる。しかし、その伊予の国として、文治二年(1186)他の伊豆・相模等五ヶ国と共に頼朝の所領となった程で頼れる先も失われ一行に対する風は冷たかった。
 某月某日一隻の舟が伊予の灘浦(元伊予市双海町上灘)に着いた。ひそかに上陸した僅かな人影に囲まれていたのは病んでいた山吹御前であった。
 一行は隠れ里を求め、上灘川の流れに沿って真東に見える山方に向かって進んだ。そして現在の伊予市双海町大栄口翠小学校の所より坂道にかかる。一行は思案の末、竹を切って笹舟とし、これに次第に衰えを見せる山吹御前を乗せ右手の山肌を斜行しながら遂に山頂まで引き上げた。これはさながら人形浄瑠璃「ひらがな盛衰記笹引き段」の光景と同様であり、其処に活写されたと言っても過言でない。この時より、人々はこの山坂を「曳き坂」と呼び、辿り着いた山頂で山吹御前を真中にして盾を立て従者がこれを囲んで恐らくは一夜を明かした地を「築盾」という。またその辺りの集落を「高見」と呼ぶのは遥か伊予灘の彼方を望見して、追手を警戒すると共に沈む夕日に漂泊の思いを深くしたと思われる。
 一行は更に勇を鼓し現在の国道56号を東に向かって横切り山に分け入って伊予市中山町佐礼谷平野に出て川の流れ逆らって日浦に至ったが、もうその間に、山吹御前は波乱と薄幸の生涯を終えたと思われ衣裳替え地と呼ばれる小祠の所で死装束に改められた。
 素朴で心優しい日浦の人々は、こおの美しい貴人がこの地を永遠の隠れ里としたことに感激し、従者と共に地を選んで鄭重に葬ると共にその上に五輪塔を建てた。更に時代により消長はあったが、旧大洲街道を隔てて山吹御前を神とする社を造営した。何れも山吹御前の故里に対して東向きとし此の地を「小字山吹」と呼ぶ。山吹御前の神徳とこおれに示された先祖達の優しい心は、蛍の里日浦の源氏蛍の青い光と共に末永く伝えていきたい。
H P:
文化財等:
資料等:現地説明板、
駐車場:なし
アクセス:松山より国道56号南下、伊予市中山町長沢交差点より左折県道225号左手に川沿いを走るようになると左側に膨らみのある路側が有り(此処に車を止める)右手に集落に渡る橋が架かっている。其処に標識があるが文字は反対側からしか見えない。(行き過ぎると三差路になる)渡って舗装されてない地道進む(途中より舗装されている)と左側に古ぼけた五輪塔がある。
撮影日:2018年9月17日

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本殿
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羽床辰蔵の墓
住 所:香川県綾歌郡綾川町羽床下
場 所【マピオンマップ↓↓↓↓】

由 来
 讃岐三大仇討ちの一つ。【讃岐三大仇討とは羽床の研辰、丸亀の田宮坊太郎、観音寺の白縫(しらぬい)のことである。】
解 説:辰蔵は刀研師で酒癖が良くなかった。お客と嫁の不倫で怒り狂って二人とも切り捨てた。嫁の不倫相手の弟たちに仇討ちに遇ってしまう。この話は、歌舞伎にもなったようです。
人物像&経緯を下記のアドレスで詳細を読んで下さい。
資 料:綾南町誌(現綾川町)など
撮影日:2016年2月3日

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弘法水(弘法大師の加持水)
住 所:愛媛県西条市北浜北
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解 説
 鉄砲場の少し下の海中にあり潮退たる時注ぎて見れば小の窮より清水湧き出づ溜と成し処三尺許もあり、弘法大師の加持水と云い伝わる。現地石碑より
 現在は、打ち抜きポンプアップ、飲み水加熱要。
民 話:弘法大師の加持水 ↓↓↓↓
文化財:西条市名水・名木50選【弘法水】、
資 料:現地説明石碑、西条市HP、など
撮影日:2016年11月8日
近隣施設:マルトモ水産港橋
蛇 足:

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眼洗い井戸
場 所:赤亀山 寺山院 延光寺境内
住 所:高知県宿毛市平田町中山390
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由 来:
伝 説:
 延暦十四年(795)空海久しく当山に錫を止め再興のの法を行いせられるに浄水乏しきを嘆かわれ、本尊に凝して地を掘りして加持すれば霊水自ら湧き出る。空海この水を宝医水と名づけ閼伽水(あかみず)用う。一切衆生離苦得楽の為に八十八支の煩悩を断ぜしむ。今の眼洗井戸なり 云々
 井戸の後ろには、地蔵様が祀られている。
資 料:現地説明板
撮影日:2016年4月13日

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杖杉庵・衛門三郎霊跡
宗 派:高野山真言宗
本 尊:地蔵菩薩
開 基:伝空海
住 所:徳島県名西郡神山町下分地中

杖杉庵(じょうしんあん)縁起
 伊予の国、浮穴郡荏原の荘の長者「衛門三郎」は財宝、倉にみち勢近国に稀な豪族であった。それでいて強欲非道な鬼畜のようなこの長者は貧しい者を虐げ召使を牛馬の如くこき使って栄華の夢に酔いしれたいた。雪模様の寒いある日、その門前に一人の旅僧が訪れた。乞食のようなみすぼらしい旅僧は、一椀の食物を乞うた。下僕の知らせに衛門三郎はうるさげに「乞食にやるものはない追い払え」と言い捨てた。そのあくる日も次の日も訪れた。衛門三郎は怒気満面いきなり旅僧の捧げる鉄鉢を引っ掴むや大地に叩きつけたと見るや鉄鉢は八つの花弁の如く四辺に飛び散った。唖然と息を呑み棒立ちとなった衛門三郎がふと我に返った時には、旅僧は煙りの如く消え失せていた。
 長者には、八人の子供があった。其翌日長男が風に散る木の葉の如くこときれた。其の翌日には次子が亡くなり八日の間に八人の子供が亡くなった。鬼神も恐れぬ衛門三郎も恩愛の情に悲嘆にくれ初めてこれはおのが悪業の報いかと見に迫る思いを感じた。空海上人とか申されるお方が四国八十八ヶ所をお開きになる為この島を遍歴なされているとか、我が無礼を働いたあの御坊こそその上人と思われる。過ぎし日の御無礼をお詫び申さねば相すまぬと発心し懺悔の長者は財宝を金にかえ妻に別れ、住みなれた館を後に野に山に寝、四国八十八ヶ所の霊場を大師を尋ねて遍路の旅をつづけた。春風秋雨行けど廻れど大師の御すがたに合うことが出来なかった。遂に霊場を廻ること二十度会えぬ大師を慕い続けた。二十一度逆の途を取って此の所までたどり着いた。疲れた足をよろぼいつつ木陰に立ち寄り背に負うた黄金の袋を下ろして見ると何とした事ぞ一塊の石となっていた。いよいよ驚き今一歩も立ち上がる気力もなくうち倒れている折しも大師の御姿が現れ給い。やさしく「やよ、旅の巡礼、そなたは過ぎし日わが鉄鉢を打ち砕いた長者にあらずや」と御声「われは空海いつぞやの旅僧なり」「ああ上人さまお許しなされませ、お許しなされまし」と伏し拝み懺悔の涙はらはらと手を合わせ大悲にすがる長者は今こそ悪業深さ無明の闇から光明世界へ還らんとする姿であった。「そのたの悪心すでに消え善心に立ち還った。この世の果報はすでに尽きたり来世の果報は望みに叶うであろう」と仰せられ、衛門三郎は大慈大悲を掌に救われ来世は一国の国司に生まれたいと願った。大師は其の心を憐れみ、小石を其の左手に握らせ、必ず一国の主に生まれよと願い給い、衛門三郎はにこっと微笑みをのこし敢え亡くなった。
 その日は天長八年十月二十日と伝えられる。大師は衛門三郎の亡骸を埋め彼の形見の遍路の杉の杖を建て墓標とされた。その杖より葉を生やし大杉となった。故に此の庵を杖杉庵と呼ばれ今尚大師の遺跡として残っている。
 此の杉は、享保年間消失した。その頃京都御室から「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られ、四国遍路の元祖として今もこの地に祀られている。
 現地説明板より転載しました。

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