四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の灯台・燈籠台

名  称:室ヶ鼻灯台(むろがはなとうだい)
番 号:5642
住  所:愛媛県西宇和郡伊方町川永田
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塗  色:白色
塔  形:コンクリート造円形
塔 高(地上~塔頂):11m
灯火標高(平均海面~灯火):31m 
灯質・灯色:等明暗白光 明3秒暗3秒
光達距離:5海里
明 弧:
初点灯:昭和47年11月8日
アクセス:伊方町役場前より港沿い室鼻公園へと進。公園駐車場利用。
資料等:海上保安庁刊行「灯台表」、宇和島海上保安部管理標識位置図
撮影日:2017年9月13日
周辺施設:道の駅「伊方きらら館」、八坂神社

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名  称:金毘羅灯篭(木製)
住  所:香川県三豊市仁尾町宿入
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制作年:平成二年七月新築復元
解説等
 江戸時代は現在地あたりから海が開け、一文字防波堤は設けられた「仁保の湊」がありました。出船・入船で賑わっていた。蔦島沖に帰った船がこの灯籠の灯りを見て、帆を解いたといわれる。北隣には丸亀藩船番所があり、積荷などの検閲を行っていました。
 平成二年七月、かつての古い金毘羅灯籠を解体した際に棟札が発見され「寛政二年庚申奉建立金毘羅大権現常夜燈壱宇」などとあり、江戸時代中期に建てられてことが判明しました。礎石の石垣は旧金毘羅灯籠時代のものである。
【平成十七年八月 仁尾町教育委員会(現三豊市)】
資 料:現地説明版
撮影日:2017年1月25日撮影

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名  称:久礼港双名南島灯台 【3075】
住  所:高知県 高岡郡中土佐町久礼
塗  色:白色
塔  形:コンクリート造円筒形
塔 高(地上~塔頂):9.6m
灯火標高(平均海面~灯火):33m 
灯質・灯色:群閃白光 毎7秒に2閃光
光達距離:10海里
明 弧:
初点灯:昭和33年2月8日 改築平成19年1月
文化財:土佐十景「双名島」
アクセス:双名島には二つの防波堤によって繋がっているので歩いて行けます。ただ、階段及び手すりなどが破損が見られ注意が必要です。駐車場はありません。路駐です。広いところあり。
周辺施設:久礼大正町市場
資 料:海上保安庁刊行「灯台表」、現地プレート、現地説明板など
撮影日:2016年2月24日撮影

 久礼港双名南島南方照射灯【3076】 灯台の南東方約130mの岩礁を照らす。灯台に併設

双名島伝説
『その昔、暴風雨のたびに久礼浦の人々は大きな被害をうけていた。それを聞いた鬼ヶ島の鬼が、久礼浦の荒れるのを防ぐため大岩をオークに突き刺しここまで運んできたが、力尽きて「おおの」と言ったまま倒れ、海中に沈んでしまった。だから島には穴があいているし、その付近を「大野」と言ったのだ。』
島をはこんだ黒鬼

 また大正九年にこの島に遊んだ大町桂月は、
     「人ならば うれしからまし 二名島 ふたつならび 万代までも」と詠んでいます。

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 赤煉瓦灯明台 
 今治市波方町大字波方字宮ノ下甲1616番地(玉生八幡神社境内) 
 波方の灯明台は煉瓦造で、従来の木造や石造とは趣を異にします。高さは土台を含めて5.7m 明治四十一年(1908)生まれの古老が物心ついた時には、すでに建っていました。
 建てた目的は、波方の船主が金刀比羅社の常夜灯として捧げたようです。しかし昭和初年の海図に描かれるなど、実際に灯台の役目を担った時期もありました。全国に残された灯明台で煉瓦造の事例はなく、常夜灯が1基、埼玉県内にあるだけです

資料等:WEB今治歴史探訪&現地説明板
撮影日:2014年6月19日

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 玉生八幡神社
 639年舒明天皇が伊予国へ下向された時、波方沖に御停泊船になった。その夜、沖の潮が二又に流れ、その間に光り輝くものがあったので、小舟を行かせて調べてみると、箱の中に三つの玉があった。
 「これは不思議な住吉大神(海上の守護神)である。この里の産土神としてお祀りさなさい。」とお言葉があり、玉生宮を創祀した。
 後に清和天皇の貞観元年(859)大分県の宇佐八幡大神を山城国(京都)男山へお移しになられる途中、当地に碇泊したとき、玉生宮より五色の異様な雲気が立ち上がら、同時に船中からも光り輝くものがあったので、社壇を築き分霊を祀った。その後、宇多天皇の寛平八年(896)に両社を併せて玉生八幡宮とした。
 源頼義を始め歴代の伊予守等の武将の信仰が厚く、特に海運業者の信仰を集めている。
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波方の港
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名  称:波止浜燈明台
住  所:愛媛県今治市波止浜四丁目
作 者:今治城下 石工 木村 忠右衛門
周辺施設:
資 料:今治歴史探訪WEB&現地説明版
撮影日:2014年6月9日撮影
 灯明台は「和式灯台」とも呼ばれ、明治になって洋式灯台が築かれるまでは、灯台の役目を果たしていました。幕末のころ、全国には100基余りあったと伝えられ、波止浜港に残る灯明台もその一つです。
 波止浜のものは、花崗岩の切石を積み重ねた石造灯明台で、嘉永二(1849)年の築造です。塔身部には「金毘羅大権現」の文字が刻まれ、航海安全を神に託す、時の海事関係者の思いが込められています。
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 奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾と呼ばれ、古くから帆船の重要な風待ち、潮待ちの天然の良港で、戦国時代は来島水軍の船溜りとして重要視され、天和三年(1683)以降の塩田開発による町家の増加、塩買船、塩田資材を供給する船の出入りが多くなり、港町とし発展し、伊予の小長崎といわれるほどに成長した。
 元禄十六年(1703)には港の入口に出入船舶を監督する船番所が置かれ、船舶と他国者の出入りを厳しく取り締り、船税の徴収にもあたった。今もその付近を御番所前という。(現在地より北の方、ドックの中あたり)
 この大灯明台は嘉永二年(1849)に御番所前に建てらたもので、当時の波止浜の人々の意気を示している。明治三十五年(1902)に現在地の移された。
 南面に嘉永二己酉十月吉日、海上安全と彫られ、東面には金毘羅大権現と彫られている。
 この前から来島、小島、馬島への渡船が発着している。

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