四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の産業・土木遺産

【河内の屋根付き橋(田丸橋)】
 河内(かわのうち)の屋根付き橋(田丸橋)は、愛媛県喜多郡内子町下河内にあり、杉皮で葺いた屋根が付いた橋です。幅2m、全長15m、橋桁を両岸から斜めに渡した木材で支えた橋脚がない構造の橋です。昭和18年(1943)の洪水で橋脚に流木が絡まり流失した経験から、地元の大工の工夫で川をまたぐ姿になった。
 昔は、生活道と物産の倉庫も兼ねており、時には、昼ごはんやお茶の時間になり、子供たちの水遊びの休憩場所になり、時には夕涼みの場所にもなっていたようです。
 地元住民により再建されて以来、今も「田丸橋保存会」によって大切に管理されています。
 河内(かわのうち)の屋根付き橋(田丸橋)=内子町有形民俗文化財昭和五十七年十二月十六日指定 土木学会選奨土木遺産2002年認定されました。
 尚、平成21年(2009)、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」のテレビドラマでロケ地となった屋根付き橋です。
 文は、現地説明案内板より転載しました。
 アクセス:松山より内子五十崎インターを下り、内子町内を松山方面に、内子町内を過ぎると県道243号へ左折約4km位麓川を登って行きます。右手に川の中に橋が見えてきます。駐車場はありませんが、バス停「下河内」周辺は広くなっています。
 写真は、2011年10月3日撮影

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 川の上流域から
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 草むらの中の道標
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【唐櫃の清水と荒神宮】
 唐櫃(からと)の清水
 唐櫃の清水は、香川県小豆郡土庄町豊島の檀山から続く急傾斜面と暖傾斜面との傾斜変換点の荒神宮の境内にあります。花崗岩を覆う土庄層群と凝灰岩・凝灰礫岩の境界付近からの湧出している。湧出量は日量50~130立方mで水温は年間を通じて13~14℃とほぼ一定している。
 この泉は「霊泉越水」とも呼ばれ、ここを訪れた空海が喉の渇きを覚えて地面を掘ったら水が湧き出たという言い伝えが残っている。
 唐櫃の清水は、1929年に「中野喜三郎」の資金的援助により共同井戸として花崗岩を用いて整備された。水場の規模は、約縦10m、横5m、高さ2mである。共同洗い場整備の功績を称えて公民館の庭に銅像が建てられている。
 唐櫃の清水は、棚田の灌漑用にと、水道敷設以前には洗い場として地域の日々の交流の場として唐櫃の清水は地域の人々の深いつながりを持っていた。1993年には「さぬきの名水」、2001年には「残したい香川の水環境50選」に選定されています。
 唐櫃岡の清水共同用水場(第37-0057号) 、清水観音堂(第37-0059号) 、清水神社(荒神宮)社殿(第37-0058号)、平成13年10月12日 文化庁登録有形文化財に指定されています。
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【別子銅山Ⅷ・歓喜間符(かんきまぶ)】
 別子本鋪(べっしほんじき)標高1,210m
 本鋪とは一山の主たる生産抗のことである。元禄4年5月9日、幕府の稼行許可を得て、泉屋は直ちに開抗の準備に取りかかった。その時点で、この谷間を利用して、掘り出した鉱石から銅を摘り出すまでの工程を組み込むために、ここを中心となる坑道を開けることにした。前年の秋に初めて調査にやって来た泉屋の番頭(田向重右衛門)が下した決断であった。かくして別子山中に最初に開いた抗口が「歓喜間符かんきまぶ」と「歓東間符かんとうまぶ」である。重右衛門が考えた通り、以来明治になって東延斜坑が主たる生産抗になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。背後の平坦地には鋪方役所があって、負夫によって運び出された鉱石は重さを計り買い取り、砕女(かなめ)小屋へと運ばれた。
 上方一帯、桧の木立の中には、山方(やまかた)と呼ばれる抗夫の住宅が並んでいた。
 上記記事は、現地案内説明板より転載しました。

 前回は、登山道三叉路をを右にとって東延斜坑跡に行ったが今回は、三差路まで引き返し銅山越え展望台・歓喜間符口方面に進んだが、既にもう3時、来た時間を考えると、展望台まで後40分は素人の足では県道沿いの駐車場に帰るには、遅くなりそうなので今回は展望台へ行くのを断念した。別子山一部終わり。もう一度のトライを考える。
 写真は、2010年8月16日撮影

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【別子銅山Ⅶ・東延斜坑跡】
 東延斜坑
 この辺りは別子鉱床の東の端に当るが、地下深部に三角(みすま)と言う所があり、そこにはとてつもない立派な鉱石が無尽蔵に眠っている事が以前から分っていた。明治7年(1874)住友家の要請を受けた鉱山師「ルイ・ラロック」は、この一点を選んで斜坑を掘り、三角の富坑体に到着させ、その間に階段状に水平坑道を開削して鉱床に逢着させる。採掘した鉱石は斜坑に集約して出鉱するという新生別子銅山案を提起した。ただ、当時日本の鉱山では本鋪(ほんじき)という大きな坑道でも5尺(1.5m)×6尺(1.8m)程度であったが、ラロックの東延斜坑は口は幅が20尺(6m)高さ9尺(2.7m)もあった。しかし、当時の住友の実力者「広瀬宰平」が、敢えてこの大起業に挑んだのは、彼が11歳で別子銅山に奉職し、三角の大富鉱体を見つけおり、三角に賭ける山内の熱い空気に触れていたからであろう。
 東延斜坑跡
 フランス人鉱山技師「ルイ・ラロック」の進言により、各水平坑道を縦に結ぶ運搬坑道として明治9年(1876)7月に着工、同28年(1895)1月に完成した。49度の斜坑で北より東35度30分の方向に626m掘り下げて八番坑道(第3通洞)に達している。この斜坑の完成により抗底の抗水は小足谷に排出され、各坑道からの鉱石は蒸気駆動の巻揚げ機で斜坑から搬出されて、別子の採鉱量は飛躍的に増大し、東延は銅山の中心地帯となり第一通洞口から下の高橋にかけて選鉱場や焼鉱炉が並んでいた。
 以上の記事は現地案内説明板より転載しました。
 写真は2010年8月16日撮影

 レンガ造りの建造物跡
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 内部から天井は無い
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 側面
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 斜坑口(穴は写真に撮れなかった。)
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 レンガ造りの建造物
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 倒壊している建造物
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 銅山越え方面
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【別子銅山Ⅵ・ミナミグチ】

 ☆第一通洞南口
 この付近一帯は通称ミナミグチと言う。別子銅山の近代化はこの付近から始まった。明治9年(1876)東延斜坑の開削が始まり明治19年には嶺北角石原から通洞が代々抗に貫通し、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1,020mに及ぶ水平抗道が初めて出現した。以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平(とうなる)へ移るまでの30年間、第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。また、明治26年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、初めて運輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、近代化の処点東延時代の一翼を担っていた。往時はこの谷にトラスト橋が架かり高橋(たかばし)製錬所まで水平軌道が延び、鉱石と製錬された粗銅(あらがね)を運んでいた。
 ☆東延地区
 この谷の上部が東延地区である。明治7年(1874)住友家が招いたフランス人鉱山師「ルイ・ラロック」の構想に基き明治9年から近代化の開発が始まった。
 あの見事な石垣の築造は2年の歳月を要して明治18年に完成したもので、面石は背後の山腹にある蛇紋岩を採石し築造した。谷川の流水は赤煉瓦30万枚を使って暗渠を構築し、用地の底を伏流させている。造成当時の用地面積は約6,600平方メートル、造成に要した作業員の数は延べ23,000人であった。ただし、冬季4~5ヶ月は積雪・凍結で工事を中断したが、その間に新居浜地区で暗渠用の煉瓦を作った。
 以上の記事は現地説明案内板より転載しました。
 写真は2010年7月16日撮影

 南口少し手前
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 第一通洞南口
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 東延地区への登山道
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 振り返った景色
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 東延地区
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