四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の史跡・城址(城)

城 名:湯築城(湯月城)
住 所:愛媛県松山市道後町
マピオンマップ↓↓↓↓
城 郭:梯郭式平山城
天 守:なし
築城主:河野氏
築城年:建武2年(1335)頃
主な改修者:
主な城主:河野氏、小早川氏、福島氏
廃 城:天正15年(1587)
遺 構:土塁、水堀、郭、
文化財:史跡=平成14年(2002)9月20日指定、日本100名城(80番)=平成18年(2006)4月6日選定、
 
資料等:Wikipedia&パンフレットなど
撮影日:2017年5月11日
近隣施設:道後温泉、松山城、子規記念博物館(有料)、

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内堀
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再現武家屋敷
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排水溝
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外堀土塁
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内堀
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遮蔽土塁
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石造湯釜
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城 名:屋嶋城(やしまのき)城門遺構復元
住 所:香川県高松市屋島東町
マピオンマップ↓↓↓↓

築城主:大和朝廷
築城年:飛鳥時代(667頃)
解 説:
 飛鳥時代の西暦667年中大兄皇子が築城を命じたことが「日本書紀」に記されている「屋嶋城」は、築城当時、日本を治めていた大和朝廷が、唐・新羅(しらぎ)の侵攻に備え、対馬・九州から瀬戸内海沿岸にかけて防御用として築いた古代山城の一つです。
 平成十年一月、地元研究者により、石積みが発見されたことを契機に、発掘調査が続けられ、平成十四年には古代山城の中でも最大規模の城門遺構を発掘するにいたりました。
 高松市は、平成十九年度から屋嶋城跡城門遺構整備事業を実施し、平成二十八年三月、城壁や城門だけでなく、屋島の歴史や自然を満喫できる空間ができあがりました。
 長さ約50m 高さ約6mの城壁 城門はありません。柱の跡は、角柱で表しています。
 広報たかまつNo1578 2016 4.1より転載しました。
 行く前に『甦る屋嶋城』アプリをダウンロードしよう!

文化財:史跡・天然記念物「屋島」に含まれる。
H P:
写真は2016年6月8日撮影
近隣施設:屋島寺、八栗寺、史跡源平の古戦場趾

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左側は天然の城壁
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柱の跡
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城 名:羽床(はゆか)城址
住 所:香川県綾歌郡綾川町羽床下
城 郭:平山城
築城主:羽床資高
築城年:平安時代末治承年間(伝)
廃城:
解説等:
 羽床城は中世香川の有力武士である羽床氏の居城である。
 羽床氏は、讃岐藤原氏の祖である綾大夫章隆の子資高が羽床荘司に任じられ、その子重隆も羽床一帯に勢力をもち、羽床藤大夫と称して讃岐藤原氏の嫡流を継ぐとともに、羽床氏の祖となった。香西氏、福家氏は羽床氏の庶流である。
 羽床氏は羽床を中心として勢力を誇ったが、南北朝期に南朝方となったため、北朝方の香西氏が有力となって、香西氏の陣代を務めるなどしたが、天正六年(1578)香西伊賀守佳清が羽床伊豆守資載(すけとし)の娘を離縁したことから両者が対立・抗争した。しかし、翌年には土佐の長宗我部元親に屈し、資載は天正十年に十河城攻めの陣中で病死した。このため資載の子資吉が家督を継いだ。資吉は、豊臣秀吉から讃岐領主に任じられた仙石権兵衛秀久に従って島津攻めに出陣したが天正十四年に戦死し、羽床氏の直径は途絶えた。
 発掘調査が行われてないので確定してない。城郭、土塁、壕(埋まって登山道になっている)など、地元民が年二度ほど竹や草木などを伐採保存に努めている。早く調査が完了して絵図を作ってほしい。
 
資料等:現地説明板&綾川町図書館蔵綾南町誌(現綾川町)、聞き取りなど
写真は2016年2月3日撮影

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民家の農機具庫の前から上っていきます。
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壕跡
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 安芸城は安芸平野のほぼ中央に位置し、小高い丘に、小詰めの段(本丸)が置かれ南側の平野部に曲輪が配された梯郭式の平山城である。城の東側には安芸川、西側には安芸川支流の矢の川が流れている。南側には溝辺の堀、北側には城ヶ淵があり、それらが天然の堀となっていた。また、更に城の周囲に内堀を構え、堀を造成した際に出た土を掻き上げて土塁とした。
 安芸城(あきじょう)は、高知県安芸市土居に存在した平山城。江戸時代には土佐藩山内家家老の五藤氏が居住し安芸(安喜)土居として存続した。
 現在、城跡に安芸市立の歴史民族資料館と書道美術館がある。
 城名:安芸城 別名安芸(安喜)土居
 城郭:梯郭式平山城
 築城主:伝・安芸親氏
 築城年:伝・1308年
 主な改修者:五藤為重
 主な城主:安芸氏、長宗我部氏、五藤氏
 廃城:明治初期
 文は現地説明板&Wikipediaなどより参照。
 写真は2013年4月25日撮影
 場所はスポットノート『城址map』に投稿します。
 
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毒井戸跡
長宗我部氏との合戦中に家臣が毒を投げ込み長宗我部氏に寝返った。
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五藤家安芸屋敷
 五藤家は、江戸時代土佐藩家老として高知城の南に高知屋敷を、また安芸土居にも屋敷を構えた。
 安芸城のふもと一帯には屋敷や蔵、馬小屋などが幾棟も並び、広い土居屋敷を構えていたが、明治になって全てを取り壊された。
 明治20年~30年代にかけて、寄棟造りの主屋や離れなどが建てられ、その南面には庭園が作られた。
 平成20年(2008)3月7日に主屋、事務所、離れ、付属屋、納屋、物置、板塀が国の登録有形文化財に登録された。
 安芸市教育委員会 説明板より転載しました。
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【秋月城と秋月歴史公園】
 秋月城(あきづきじょう)は、徳島県阿波市土成町秋月に室町時代の阿波国阿波郡秋月庄にあった城。
 建武三年(1336)の新政により小笠原氏(後の三好氏)に代って阿波国守護となって入国した細川和氏・頼春兄弟が、当地の土豪の秋月氏の受け入りにより築いた守護居館をもとに築城され四国統一の拠点となった。
 管領となった頼之の弟で阿波細川家の祖となった詮春の代に守護居城は勝瑞城に移った。

 この地は古代秋月郷と呼ばれ、土豪秋月氏がここに居館を構えた。文永年間守護小笠原氏から世継ぎを迎えたと伝えられている。
 細川阿波守和氏らは秋月氏に迎えられ、秋月に居館を構え四国全域に号令、四国管領として大きな勢力を誇っていた。
 秋月城は南北朝から室町時代にかけて、細川氏の拠点として枢要の地歩をしめていた。
 その後、細川詮春が勝瑞城に移った後、秋月中司大輔(森飛騨守)が守ったと伝えられている。
 天正七年(1579)、土佐の長宗我部軍の兵火にあって落城したといわれている。
 この城跡の周辺には、秋月城の名残りとして御原の泉・的場の跡・竈跡等が残っている。
 『秋月城跡案内板』よ転載しました

 城郭:平城
 築城主:細川和氏
 築城年:室町時代初期
 主な改修者:戸川達安
 主な城主:細川和氏・頼春・頼之・詮春など
 廃城:天正7年(1579)
 徳島県阿波市指定史跡
 
 文は現地説明板&Wikipedia&パンフレットなどより参照。
 写真は2012年5月22日撮影
 場所はワイワイマップ『城・城址のMAP』にスポット投稿します。

 秋月城石碑
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的場跡=お墓がある辺り(土塁でしょうか)
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 秋月歴史公園
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 模擬建造物の物見櫓
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 秋月城下守之址
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