四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

カテゴリ: 四国の堰堤ダム池

橘池
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管理者:
河川名:本津川水系日名代川
住 所:香川県高松市国分寺町橘

施 工:伝奈良時代
堰堤長:280.0m(北)
堰堤高:11.60m
貯水量:555.9千立方m
目 的:「A」灌漑、受益面積:68.4ヘクタール
形 式:アース
解説等
 奈良時代には既にできていたようで、その位置は現位置よりもっと下流に堤防を築き、浅くて広い池だったようです。ところが、この池は浅い池でありながら、ゆる(取水施設)付近は何度築いても決壊するので大変困っていました。寛永年間(1624~1645 年)の大干ばつの年、前年に堤防が切れていたため、池には全く水が溜まらず、一粒の米もとれませんでした。時の領主生駒高俊は家臣西嶋八兵衛に命じて現在地に池を築造しましたが、この地の地名が橘だったので、橘池というようになったと伝えられています。
 下流の池跡は、広大で肥沃な新田が約六十町歩も開拓されたといわれています。しかし、この新田開拓によって更に水不足をきたし、岡内家七代彦左衛門が文政四年(1821)に羽間池より橘池まで約二㌔の羽間掛井手(導水路)を掘り、羽間池の余水を導水することとしました。せっかく開拓した掛井手も距離が長く、勾配がほとんどない状態で、思うように導水できないため、しだいに使われなくなりました。
 その後、江戸時代に三回(1794年、1832年、1856年)池の改修がなされた記録がありますが、それ以降は、大規模な工事は行われませんでした。
 今のため池は、昭和三十年度(1995)から平成二十年度(2008)までに各種事業により全面改修が行なわれ、立派なため池となっています。 
資 料:現地記念碑、WEBなど、

撮影日:2023年1月12日
駐車場:無し
附 則:香川県内では34番目の大きさの池。旧国分寺町内では一番大きい池。(コンクリート堰堤も含む)

衣掛池
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管理者:高松市鬼無土地改良区
河川名:本津川
住 所:香川県高松市鬼無町

施 工:伝寛永年間
改 築:昭和53年7月竣工 堤体及び余水吐け・樋管工事
堰堤長:436.0m(北・東)
堰堤高:6.20m
貯水量:242千立方m
目 的:「A」灌漑、受益面積:47.5ヘクタール
形 式:アース
解説等
 古川からの取水や本津川からの揚水で 47.5ha の灌漑をまかない、勝賀山麓の山走り水の受皿としても大きな役割を担っています。「衣掛池の碑」によると、「西嶋八兵衛が寛永三年(1626)から十三年に掛けて、生駒領内で、神内池など 90 余を築造した。この池もその 1 つなり。」と記載されています。
 衣掛池はその後、何度も増改築がなされた記録があります。昭和39年の県営香東川沿岸用水改良事業として本津幹線水路(奈良須池から衣掛池までの延長 5.6km)が整備され、この池の貯水が容易となりました。また、香川用水もこの幹線水路を利用しています。近年では、昭和50年から3 ヵ年をかけ団体営老朽ため池等整備事業で、延長 436m の堤防工事と洪水吐1か所、樋管2か所の補強工事を行いました。また、「揺(ゆる)」に使われていた木材が先人の偉業を忍ぶモニュメン
トとして老朽溜池整備記念碑の横に組立てられています。
池の北側には、日本で唯一の「舌出し閻魔え ん ま像」が安置されている円蔵院がある。旧高松丸亀街道での休憩所ともなっていただろう。
資 料:現地記念碑、WEBなど、

撮影日:2022年10月16日
駐車場:無し
附 則:貯水量=香川県第90位、高松市18位=アース

仁池(飯山)

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取水口
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余水吐け
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大正以前の樋管
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管理者:綾歌郡仁池土地改良区
河川名:大束川水系
住 所:香川県丸亀市飯山町上法軍寺

施 工:1648年/1649年
改 築:
堰堤長:328.0m
堰堤高:16.0m
貯水量:1502千立方m
目 的:「A」灌漑、受益面積:28.0ヘクタール
形 式:アース
解説等
 『法勲寺村史』では、綾歌町栗熊、片岡家の「仁池由緒記」から、
 抑、仁池建築歳頃先慶安元亥年六月二十八日より始めて翌二年三月二十五日まで成就と云う。且つ掛諸役人百姓惣代印名書之義は別冊帳面に委細在之者也。
 堤 根置 四八件 但 □長五十二間
 堤 東西七十間 同満水の時 水溜り波打まで畝数三十六兆余といへり
 右普請まで人足六万八千三百九十八人云う者なり。
 ・・・・世の中の事は寸善尺魔とや、ここに矢延平六といえども予期しなかった大難に逢うことになった。その仔細は、ある時佞人(ねいじん=口先巧みにへつらう、心のよこしまな人)がいて矢延氏を讒し(よこし=事実をまげて人の悪口を言うこと)上聞に達した。このため、上役から「この度其の方の労により仁池を建設したというが、一体何程の用水がある」と尋ねられた。平六が「五月中旬から百日ばかりの用水がある」と答えると、「稲というものは植え付けから七十五日もすれば穂も十分に熟し刈り取りもできる。それを必要以上に溜め、藩はもとより下百姓に至るまで無用の費用をつかわせ、まことに不都合千万のことである」として、おとがめを蒙り、その上牢人を仰せつけられた。
 平六は残念に思い、自分は今日まで主君のために人民を補助し、いささか功績もあったと自負してきた。しかるに恩賞にあずかってもしかるべき所を、却っておとがめを蒙りまことに心外である。しかし、これも世のありようでしばらく閑居して然るべしと思い、阿波守様ご家中の柏曲求馬(柏回求馬、柏木求馬の書あり)という者を頼り阿波国へ逗留した。その逗留中、つれづれの四方山ばなしの末、我が身の不幸せの次第を物語るうち、元馬はいかにも理不尽な話であると驚き、家老の蜂須賀駿河殿に申し上げたところ、左様な大慮ある者をこのまま放置することはできないとし、更に阿波藩主の上聞に達し、藩主も同様に思い召されて、高松藩主にお取り成しがあり、間もなくお嘆び返しになった。御役仰付けられ、なお扶持も増加になったと、記されている。
 その後は、享保のゆる替え。大正の樋管替えなどをへて昭和四十年の改修工事などを経て現在いたる。、
資 料:現地記念碑、讃岐のため池誌資料編など、

撮影日:2022年5月13日
駐車場:無し
附 則:アース式堰堤での貯水量が4番目の大きさの池。1位満濃池、2位公渕池、3位三郎池
関連BLOG:飛渡神社矢延平六

道池(太田池)
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管理者:高松市太田土地改良区・道池水利組合
河川名:詰田川水系御坊川支流古川
住 所:香川県高松市太田上町

改 築:着工昭和五十六年十一月 竣工平成元年三月(堤体・前付け延長・樋管・余水吐け)
堰堤長:515.0m
堰堤高:5.0m
貯水量:51千立方m
目 的:「A」灌漑、受益面積:25.0ヘクタール
形 式:アース
解説等
 太田道池の起源については定かでないが、この地区が過去に幾度となく旱魃の被害を蒙っていたため郷土の先人が灌漑用ため池として築造し以来営々として管理されてきた。
 しかしながら近年は老朽化が著しく漏水決壊の恐れさえ出てきたことから改修について道池関係者が協議を重ねたが容易に実現しなかった。
 たまたまこの地区に公民館建設の話が持ち上がり、その用地として道池東南部の一部埋め立てによって用地造成してはとの意見が出た。水利関係者も地域住民が広く利用する公共施設であるとの理解をし協力することになった。
 埋め立てによって減少する貯水量はため池の抜本的な改修で補完。後世に悔いを残さない方法をとった。
 池の南がわで大正の頃、消防組・在郷軍人会・青年団主催の競馬が行われていたようだ。(碑が建っている)
資 料:現地記念碑など、
撮影日:2022年4月19日
駐車場:無し
旧高松市内48位の貯水量ダム池。1位椛川ダム、2位内場ダム、3位三郎池

舟岡池
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西側堰堤
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舟岡山
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洪水吐け 平池・前池に続く
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管理者:舟岡池土地改良区
河川名:新川水系春日川支流古川
住 所:香川県高松市香川町

堰堤長:956.0m
堰堤高:7.2m
貯水量:352.2千立方m
目 的:「A」灌漑、灌漑面積:44.1ヘクタール(旧寺井村(現高松市寺井町)、百相村(現高松市仏生山町)神宮寺、)
形 式:アース
解説等
 舟岡池は江戸時代中期の新田の進展に伴いその満水を確保する目的で築造されたもである。工事の完成は寛文十三年(1673)といわれている。
 此の地は太古の昔香東川の河床であり豊富な地下水が舟岡山で堰き止められ多量の湧水がみられるため、蓄える他旧川東村(現高松市香川町川東)高須付近の香東川柳生井堰より延々三粁に及ぶ水路を開削、隣接の平池と共〇○○満水させることとしていた。築造当時の水掛りは、旧寺井村(現高松市寺井町)、百相村(現高松市仏生山町)神宮寺、一宮村(現高松市一宮町)、三名村(現高松市三名町)及び鹿角村(現高松市鹿角町)の五ヶ村に跨る広大な水田に対し行寺池、辻堂池と共に用水を供給していたが新田の増加に伴ない年々用水不足が甚だしくなり干魃をうけること年々再々であり水争いが絶えず大正十一年には収穫皆無に近い大旱魃に見舞われ上下流対立して前例をみない水利紛争が発生、遂に水下である一宮、三名、鹿角村の各地区が水利権を放棄して現在の水掛かりとなった。
 其の後昭和二十八年の内場池と昭和四十九年の香川用水の完成により往古の旱魃の面影ををみることなくなった。舟岡池は周囲が殆ど堤防に囲まれた野池であり、堤防の全長は千百二十米に及び先人はこの管理に辛酸をなめ営々と努力を積み重ね今日に至ったもので近年では昭和四十二年から四十四年にわたって決壊の恐れある西堤防四百三十米、東堤防九十一米を国の補助による老朽ため池整備事業として総事業費二千二百九十万円を投じて改修工事を完成した。
 又、昭和四十年には池の南部0.75ヘクタールを埋め立て二二戸の住宅団地用地として提供した。此度高松市南部及び香川郡一帯の地域の開発発展と新高松空港への交通幹線の整備をはかるための国道193号線バイパス建設用地として提供の要請に接し全組合員が度重なる協議
を行った結果公共施設の重要性に鑑み全面的に協力することに決し、其用地として0.38ヘクタールの池敷を提供することになり、西堤防を東方へ最大三十二米移設改築したものである。
 昭和六十二年には東堤防の改修工事。
 平成二十八年舟岡山法面が未整備となっていた為法面崩壊による貯水量減や管理道の幅員減少が発生していた。舟岡山所有者より五百五十二平方メートルの土地提供を受け、法面及び管理道の改修工事が完成。
資 料:現地石碑、讃岐のため池誌 平成十二年三月三十一日発行、
撮影日:2022年1月26日
駐車場:無し
香川県内62位の貯水量ダム池。1位満濃池、2位椛川ダム、3位内場ダム、
関連BLOG:平池前池

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