中浜万次郎像
作 家:西 常雄
材 料:ブロンズ
制作年:
鋳 造:岡宮 紀秀
石 工:弘田 禎亮・吉木 光夫
設置場所:足摺岬入口
住 所:高知県土佐清水市足摺町
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解 説
 中浜万次郎 1827~1898
 中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。
 万次郎は、この足摺岬にほど近い「中の浜」の貧しい漁夫の次男に生まれた。14歳のとき出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島鳥島吹き流されが、半年ののち運よく通りかかったアメリカの捕鯨船「john Howland」号に救助された。船長は、万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけた。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第一号となった。彼は10年に及ぶ国外生活中「J0hn Mung」と呼ばれ英語、航海術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。
 しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこに残してきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきた。
 とき、1851年2月、かの黒船の来航にさきだつこと2年であった。このような時機も幸いして、彼は罪にとらわれなかったばかりか、苗字帯刀をゆるされ幕府の直参に取り立てられた。
 これより中浜万次郎は外国事情の講和やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日を送ることになった。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには彼の優れた航海術が大きな力となっていた。
 帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。
 明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任じられた。数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。

~作家 略 歴~

撮影日:2016年4月14日

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