【琴弾八幡宮】
 琴弾八幡宮(ことひきはちまんぐう)は、香川県観音寺市の琴弾山に鎮座しているいる神社である。
 主祭神は、応神天皇、神功皇后、玉依姫命
 神仏習合の時代には当社が四国八十八箇所第68番札所だった。現在は新四国曼荼羅霊場23番。さぬき十五社の14番でもある。
 社伝では、大宝3年(703年)3月、琴弾山で修行していた日証上人が八幡大菩薩の乗った船が近くに漂着したのを見つけ、里人とともに船を山頂に運び祀ったのに始まると伝える。そのとき、船の中から琴の音がしていたことから「琴弾」の社名がある。同時に当社の神宮寺として、後に第69番札所観音寺となる神宮寺を建立した。
 大同二年(807)、四国を行脚中の空海が当社に参拝し、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来の像を描いて本尊とし、琴弾山神恵院(じんねいん)として四国霊場第68番札所に定めたという。
 明治の神仏分離により、本地・阿弥陀如来像は観音寺境内の西金堂に移され、琴弾神社と神恵院に分離された。第二次大戦後、琴弾八幡宮と復称した。

 秋季大祭で、9台のちょうさ(太鼓台)がその勇壮さを競う。太鼓台奉納は江戸時代からの伝統があり、現代でも細かい規則に則って運営されている。

 <><>『一ッ物(ひとつもの)』神事由来
当宮御大祭に童子を神の慿代(よりしろ)として駕籠に乗せ、神輿の前に立たしめる神事があります。これを『一ッ物』云う。
一ッ物きびしい齋(ものいみ)と祓川(はらへがわ)での放生会(ほうじょうえ)により、国家の平安、郷土の発展、子孫繁栄を祈念します。放生会は土曜日午後五時に行います。 琴弾八幡宮

 <><>源平屋島合戦の由来
 源平屋島合戦は「吾妻鏡」によると寿永四年(1185)二月十九日から三日間の戦いだったとされている。ここ琴弾山がこの合戦で源氏の勝利にゆかりの地であることを知る人は少ない。
 屋島の戦いは源氏が優勢のうちに進められていた。平家水軍の総大将「能登守教経」は、起死回生の作戦として伊予大洲城主「田口左衛門教能」が伊予路の源氏勢を平定したあと一千騎を率い連れての到着を待って、屋島沖から手勢を加えて一挙に源氏勢を挟み討ちにする事を考えていた。
 この作戦は順調に進んだかに見えたが、智将「義経」は夢の中に見えた「教経」の幻影からこの作戦を見破っていた。
 屋島の源氏勢二百五十騎にとって敵一千騎の援軍では勝ち目の無い事を知った「義経」は、腹心「伊勢三郎義盛」に命じ、田口勢が屋島に到着する前に説得によって喰いとめることをはかった。
 源氏滅亡を双肩にした「義盛」は、手勢十六騎と共に、万一ときは討ち死にを覚悟で鎧の下に白装束を着こんで浜辺伝いに西にとんだ。
 義盛が田口勢と出合ったのがこの琴弾山だった。二十騎足らずの敵に気を許した大将「田口左衛門教能」は、義盛の申し入れに応じ、太刀を外して十王堂の一隅で相対した。義盛の言葉は、屋島の合戦で源氏に勝運が微笑み平家方の多くは討ち死にするか捕らわれの身となった事を。その中で教能の父「阿部民部重能」も武運を察して降参したという事だった。
 義盛の命がけの熱弁に惑わされた教能は『父捕わる』に心は大きく動揺した。『一門悉く打ち破られてはこの上戦っても無益な事、屋島の戦いに間に合わなかったのが武運のつき・・・』と田口千騎はこの地で源氏の軍門に降った。
間もなく敗れた平家の残党は屋島から海路、新三位中納言「知盛」の待つ長門彦島(下関市)に向かって落ちて行った。時に二十一日の夕暮れだったという。
 琴弾八幡宮に今も残っている「木の鳥居」は屋島戦勝の印として其の後源氏の側近が義経に代わって奉納したとも伝えられる。 観音寺市
 義経は屋島の戦いの後に平家追討を祈願して馬と鳥居を奉納し、頼朝は1千貫文の土地を寄進した。
 文は現地説明板&Wikipediaより転載しました。
 写真は2012年4月8日撮影
 場所はワイワイマップ『源平ゆかり地』にスポット投稿します。
 byビュート
 ちょうさかきくらべ広場より山頂本殿まで入り口階段
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 隋神門
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 階段(玉垣注意)
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 木の鳥居(義経が平家追討を祈願して奉納)
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 拝殿
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 本殿
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 有明富士(ありあけふじ)江甫草山・江甫山・九十九山、(つくもやま)
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 七宝山
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 琴弾八幡宮永代常夜燈
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 拝殿前の手洗舎
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 神幸殿
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