【臥龍山荘】
 臥龍山荘(がりゅうさんそう)は愛媛県大洲市大洲にある。
 小京都といわれる城下町大洲、この町の東端、肱川流域随一の景勝地“臥龍淵”に臨む3.000坪の山荘です。
 神楽山を背に、東南の富士(とみす)と梁瀬の山々と肱川如法寺河原の自然を取り入れた借景庭園は、自然と人工の典

雅な調和をみせます。
 臥龍院、不老庵、知止庵の3建築は、それぞれに数奇をこらした逸品揃いです。
今や望むべくもない銘木と優れた着想と名工たち、それらが一つになって、建物の細部に見事に結美しています。
 四季折々に深い趣きがあり、茶の心、日本の心が今に生き続けています。

 昭和三十一年九月此の地を名勝「臥龍」を大洲市の文化財に指定 さらに、昭和六十年二月愛媛県有形文化財(建築物)に「臥龍院」と「不老庵」が指定されました。

 由来
 「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」ことから「加藤泰恒(第3代大洲藩主)」が、“臥龍”と命名したと云われています。
 清流肱川河畔でも優れたこの景勝の地に初めて庭園を造ったのは、文禄の昔、藤堂高虎の重臣「渡辺勘兵衛」です。その後、此の地を愛した泰恒公は、吉野の桜・龍田の楓を移植し、庭に一層の風致を加えました。幕末まで歴代藩主の遊賞地でしたが、ことさら補修もされず、自然に荒れ行くままでした。現在の山荘は、明治の貿易商「河内寅次郎」が構想10年、施工4年の歳月にかけて建設し、明治40年(1907)に完成をみた。臥龍院(がりゅういん)、不老庵(ふろうあん)、知止庵(ちしあん)の建造物と借景庭園が広がり、冨士山(とみすやま)・肱川の光景を眺めることができる。

 門
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 臥龍院(木造茅葺寄棟造り平屋付属建物一部瓦葺き、倉庫2階建て、五十九坪)
 河内寅次郎が構想10年、工期4年と、その情熱の全てをそそいだ最も苦心した建物です。延九千人の人出を要し、桂離宮・修学院離宮・梨本宮御常御殿などを参考に、相談役に茶室建築家八木氏、施工は、大洲・京都の名大工。建物細部は、千家十職、絵画は、当時の大家に以来して完成した名建築です。(欄間他建具が素晴らしい。) 
 清吹の間(せいすいのま)は欄間の透かし彫りにより水の流れを表現し高い天井には屋久杉が使われ。壱是の間(いつしのま)は桂離宮様式が色濃く現れ。霞月の間(かげつのま)は、縁に仙台松の一枚板が使用されるなど各所に創意工夫がなされている。 
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 知止庵(一文字瓦葺き平屋建て、三坪)
 かつて浴室だった建物。昭和二十四年茶室に改造しました。「知止(ちし)」の扁額は、第十代藩主加藤泰済の筆です。陽明学者「中江藤樹」の説いた教えから、“知止”という庵名が生まれました。
 壁の腰張は、皇室の名代を徳川家で迎える時、その接待役を勤めた、第三代藩主泰恒の「茶方日記」の反古です。
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 不老庵(茅葺寄棟平屋建て、八坪)
 臥龍淵(がりゅうのふち)を足下に見る崖の上に建てた舞台造りに建てた数寄屋造りのこの庵は、庵そのものを舟に見たたて、穹窿状網代(きゅうりゅうじょうあじろ)張り一枚天井は、河面の月光を反射さす巧妙な趣向です。
 床は、二間幅の仙台松一枚板を用い、二間の曲がり竹を落とし掛けしたのみで、違い棚を付けない簡潔さです。
 入口縁続きに大徳寺菰路庵に見るような素朴な意匠の茶室(三畳台目)があります。生きた槙の木が「捨て柱」を基準にて建てられています。
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 庭園
 自然の景観を巧みにか借りた河岸庭園。神戸の庭師「植徳」の十年がかりの作。さり気なく置かれた庭石の一つ一つが吟味されています。“流れ積み”“末広積み”“乱れ積み”といった石積方法の中に、飛び石・船石を配した妙。さらに、飛び石は、“てまり石”“臼石”“伽藍礎石”といった銘石揃いです。“でんだ石”も見ものです。樹木も多く、榎木・槙が数百年の深い生命を保っています。苔類も珍種が見らられ京都西芳寺にも比すべきもんです。
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 河内寅次郎(こうちとらじろう)1853~1908
 愛媛県大洲市新谷出身。明治22年、同郷の池田貫兵衛と神戸に喜多組合名会社を設立、木蝋事業に従事。同40年、臥龍山荘を築く。
 入園料大人五百円・駐車場有 年中無休(年末年始は休み)
 0893-24-3759
 文はパンフレットより転載しました。
 写真は2011年10月3日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。
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