【小学校と劇場跡】
 小学校跡
 政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務付けられるようになった。これを受けて別子銅山では明治8年(1875)に勘場(統括事務所)の下方、通称目出度町(めったまち)に私立の足谷小学校を創設した。その後も学校教育は次第に一般化し、明治19年5月には人口も急増もあって小足谷尋常小学校を建設、続いて高等小学校も併設した。更に明治27年(1894)に私立別子尋常高等小学校となった。最盛期の明治32年3月には生徒数は男女合計298名、教員は7名であった。
 別子測候所跡
 学校跡の隣で高い石垣のある所は私立別子測候所で煙害対策の一環として明治31年に設立された。
 劇場跡
 山林課と土木課の事務所兼小足谷劇場の跡で明治22年に建てられ、毎年5月の山神祭の3日間は、歌舞伎の名優をはるばる京都から呼んで、数千人の観衆をうならせたといわれる。
 別子銅山が近代化が軌道に乗り出すと、採鉱・製錬の生産部門と並行して、それを支える部門も増強されて行った。製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり、明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)には、ここを起点とする車道が中七番まで開通し、夥しい坑木や建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。明治22年(1889)山林係が山林課に昇格し、土木課では、明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。明治23年5年の別子銅山200年祭には、ここを劇場として開放し、上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。以来、毎年5月に山神祭には劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた。
 以上の記事は、現地説明案内板より転載しました。
 写真は、2010年8月16日撮影

 小学校跡
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 測候所跡
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 劇場跡(土木課倉庫)
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