【種蒔大師と穴観音古墳】
 四国八十八ヶ所第1番奥の院・八葉山・東林院(種蒔大師)は徳島県鳴門市大麻町にあるお寺で本尊は薬師如来で開基は行基菩薩で高野山真言宗

 東林院縁起
 当院は聖武天皇の御宇 天平五年(733年)行基菩薩の開基にして高野山真言宗 八葉山 神宮寺 東林院と称し古来 阿波国八門首(薬王寺 神宮寺 鶴林寺隆禅寺 神應寺 端川院 荘厳院 東林院)の一寺にして昔は末寺十六ヶ寺を数え広大なる伽藍なりしが数度の火難、特に元禄年間(1700年頃)の大火により中絶同様の小地に成ると雖も歴代住職の精進努力と檀信徒の篤信により復興著しく特に昭和59年の弘法大師御入定1150年御遠忌記念本坊新築により往時の威風を偲ぶに至る。古来より学問寺として名高く、水原堯榮元高野山管長の名著「高野版の研究」という図書の一文に東林院を中心として勃興した学門僧にに哲真 維宝 能厳龍剛 快盤などの名僧もあり云々。
維宝阿闍梨の如きは特に漢字に精通し、かの弘法大師の御著「文鏡秘府論」に関する注釈書十八巻を遺す。哲真阿闍梨は顕教、密教の二教に蘊蓄を究める。
 海雄阿闍梨は高野山宝性院(現在の大本山宝寿院)の第四十二世門首たり、孝明天皇(明治天皇の父)の詣により幕末の混乱をおさめ今日の日本の繁栄の源を築く。その外に霊端 寛宝 両阿闍梨等も当院の出身なり。
 近代では昭和九年高野山根本大塔建立の当事者、宮崎忍を尽くせし、近藤禅海大僧正の名僧を生む。
尚、元禄年間の火災により建立時よりの記録等は焼失せるも、京都石清水八幡宮の古文書に、治承二年(804年)に当院の記録あり。平成5年1月吉日 山主敬白と書かれている。

 種蒔弘法大師の由来
 大同3年~4年(808~809年)頃、弘法大師、四国霊場御開創の為南海道を通り御巡錫の砌り、当地へ遊化し東林院に御滞在、農業奨励の為、御身自ら鍬を取り、米麦の種を蒔き、又一方、民衆を集めて真言の教えを説き菩提の善種を蒔き給う。
 庶民の大師の御徳を慕う事恰も赤子の慈母に於けるが如し、茲に於いて大師、当地御出発に当り庶民の熱望に答えて等身の尊像を彫刻し給えリ。
 世に之を種蒔弘法大師と崇め奉り年経るままに其の霊験は広く民衆、信者の認める所なり。
近年、国の農業政策は種々変われども当地は西日本有数の農林地域にて、蓮根・甘藷・梨・米・等々、人間の生命の根本たる食糧、栄養に大いに貢献せられし事は誠に種蒔弘法大師の御徳霊験と有難く受け止め給う。以上の記事は当地案内掲示板より

 本尊薬師如来縁起
天平5年、行基菩薩の御作にして徳島藩主、蜂須賀候の帰依厚く祈願寺として喜捨12貫の奉納あり。寛永年間、藩主江戸在勤の時当院薬師如来の特別御祈祷の仰せ付けありて、その祈?御守札を江戸藩主邸へ持参せしその夜、御本尊薬師如来から藩主を始め、家臣、中村若狭守へ御夢告のおしるしあり。その時本尊を、身代薬師如来と尊称す。以上の記事は当地案内掲示板より

 穴観音古墳(あなかんのん)
 大谷川扇状地西側の丘陵ヒに立地する円墳。東林院古墳を含め東林院という寺の裏山には20基近い古墳で構成される古墳群であったと伝えられる。埋葬施設は南東方向に開口する胴張形の無袖型横穴式石室で石室主軸は羨道部は破壊されているが、石室現存長2.8m、玄室長2.36m・奥壁幅1.5m・玄室最大幅1.72m・玄門幅1.26mを測る。板石のみで玄門としている。石室の構築方法は一段ごとに奥壁・側壁の順で各段ずつ4段日まで積み上げ、その後羨道部を半分積み土げたのちに天井石を架構する。石室石材はすべてが付近の山で産出する和泉系砂岩が使用される。出土遣物はない。築造時期は石室の構造から6世紀後期が考えられる。(日本古墳大辞典:東京堂出版)
 写真は2010年7月20日撮影
 地図は、ワイワイマップにスポット投稿します。

 お寺への入口と道標
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 本堂
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 大師堂
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 薬師堂
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 鐘楼
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 穴観音古墳
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 古墳内部
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 古墳天井石
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