四国観光スポットblog

四国の観光スポットの足跡を写真で紹介するブログ

橋梁名:鴨部川鉄橋
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路線名:コトデン長尾線
川 名:鴨部川
管理者:コトデン
場 所:公文明・長尾駅間
住 所:愛媛県木田郡三木町井戸・香川県さぬき市昭和

種 類:
規 模:橋長m 幅員m
製 作:
着工/竣工:
解説等
 明治45年(1912)に開業した高松電気軌道は将来の複線化に備えて下流側を階段構造とし全国でも珍しい半完成の状態で開業した。大正9年(1920)桁を鋼製化が完了するまで木橋であった。橋脚や橋台には木橋時代に桁を斜めに支えた支保工受け部の痕跡である窪みが残っている。
 なお、当長尾線は昭和24年(1949)10月に狭軌用橋桁を標準軌化した。そのさいに橋桁の平行するⅠビームを繋ぐ支材の中央部を切断し、別の鋼材をリベット留めして拡幅した痕跡が残っている。
 昭和47年(1972)に災害復旧工事なさい径間が拡大された第4桁に志度線の橋梁架け替えにともなう発製品を今橋工場に回収してストックしてあったものを転用(志度線相引川橋梁の桁を転用したのではないかと推察される) 
資料等:琴電100年のあゆみより
文化財指定等:
撮影日:2023年8月18日

鎌倉芳太郎顕彰碑
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山大寺池
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嶽山
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白山
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場 所:山大寺池堰堤
住所:香川県木田郡三木町

出身地:香川県木田郡三木町氷上
略歴・業績等
 香川県師範学校、東京美術学校図画師範科に学んだ。大正十年卒業と同時に沖縄県女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校教諭併任となった。芳太郎にとり琉球列島の風土景観全てが珍しく当時出始めた写真機を使い風物を撮影。沖縄伝統の紅型にも興味を持ち研究を重ねて新境地を開く。また、首里城を撤去し沖縄神社を作る内務省方針を知った芳太郎が建築家の東京帝国大学教授「伊東忠太」に連絡、今日の城郭が残り国指定の史跡となった。戦火で破壊された城跡などの再建には、芳太郎の記録がなければありえなかった。沖縄諸島の写真だけでも千数百枚もあり見聞きした風物なども細かく記録した帳面は八十冊に及び各地で遺宝を見つけた。
 のち、東京美術学校助教授となり多くの資料物品を東京に保管、これらの貴重な資料が戦火を免れた。
 沖縄研究は多岐にわたり、昭和四十八年に重要無形文化財保持者に認定され、沖縄県立芸術大学に研究資料が収蔵されている。
 昭和五十八年に死去。
 顕彰碑はさぬき百景山大寺池堰堤の風光明媚な所に建っている。北に白山、西に嶽山、南に三木町運動公園その東に太鼓の森などがある。
本 名:
 号 :
[明治31年(1898)10月19日~昭和58年(1983)8月3日]
建 立:鎌倉芳太郎顕彰会 平成二十二年十月
資料等:現地石碑、Wikipediaなど
撮影日:2023年8月19日
駐車場:別になし、近くの空き地に駐車。

花園町の由来記念碑
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住 所:香川県高松市花園町
解 説
 高松が城下町が出来たころ、この辺りは静かな郊外で、眺めがよく、はるか北の沖松島の八丁土手辺りに美しい松並木が見えたという。
 江戸時代のいくつかの城下絵図には、花畠と記されており、一面の花園であったらしい。
 高松城を築いた生駒家の別荘がこの地にあったが、松平家になって、初代藩主頼重公は、この別荘を老臣彦坂織部正に与え「静観荘」と名付けられた。
 また、その北側には重臣谷有馬の「詠帰亭」があり、この辺りは別荘地であったことが伺える。
 また、藩医池田玄丈が五代藩主頼恭公の命により砂糖きびを栽培したのもこの花畠であったといわれる。
 大正十年に花園町が誕生したが、花園という地名は江戸時代の花畠に由来する。
建 立:平成六年十月吉日 花園地区地域おこし事業推進委員会
 書 :
資 料:現地説明石碑など、
撮影日:2018年10月8日

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